第33話

 窓の外から、屋根を打つ雨音が響く。これでもう何日目であろうか。ああ、日本の初夏。雨の季節。梅雨さえなければ初夏は心穏やかに生きられる季節である。まだ日中の気温がさほど上がらないから、カラッとしていさえすれば過ごしやすいはずなのだ。


 ところがどっこい。現実には湿度500%と主張したいくらいじとじと蒸し蒸し。おかげで、ねばりつく湿気に頭痛がしたり、部屋干しの衣類の匂いでげんなりしたり、電車のひといきれでむかむかしたり、コピー用紙が詰まって苛々したり、その他もろもろのあらゆる不快事象が引き起こされる。ああ、梅雨のなかりせば。


 だが、人生に「もし」「たら」「れば」は無意味である。テレビのお天気お兄さんが伝えてくれているとおり、私の周囲には厳然として梅雨前線が張り巡らされてしまっている。四面楚歌。絶体絶命。いや、もう、絶命済み。


「メニョー。むしむしするよう。」


 私はフローリングにごろりと身を横たえ、身の丈四尺の飼いネコ、メニョの腹の毛をもふもふした。ネコもまた、湿気に弱い。ここの所、部屋の片隅で毛むくじゃらの棒きれのように伸びて転がっているばかりで、散歩にも行かない。掃除もしてくれない。時々、ご飯の支度もさぼる。何をしているかと言えば、こうしてうたたねだ。


「めにょー、メニョ―。返事してよー。」

「…」


ぱた、ぱた、としっぽの先半分だけが動く。聞いてはいるらしい。そのしっぽをむんずと掴むと、メニョがもぞりを身体を動かした。漸く起きるのか、と思いきや、ただの寝返り。


 私もごろりと四半回転し、仰向けに天井を見上げた。ぐう、と私の腹が鳴る。おなか空いた。晩御飯の時間だ。でも、メニョは、今日もご飯を作ってくれないみたい。


「はらへり。」


私はさりげなく催促した。メニョはしっぽの先さえ動かさない。ぐうう。返事をするのは、腹の虫ばかり。


 と思ったら、メニョがふいっと顔を上げた。よっこいしょ、と言わんばかりの態度で身を起こし、大きなあくびを一つ。それから、メリヤス編みのごとき伸びをこなすと、メニョはそのままぽてぽてと台所に向かって歩いていく。しめた。私は喜んで手を振った。


「お、ご飯作ってくれるのか。頼んだ。湿気てて、私はやる気が起きない。」


 私は安心して、フローリングの上に寝そべったまま目を閉じた。後は良きに計らえ。良い匂いがして来たら、起きよう。


 湿気ている日は眠い。私はすぐにほんのりとしたウトウト感に囚われた。とろりと世界が溶けていく。ああ、いい気分。


 だが、それもつかの間。何か硬い物が私の額をコツコツと叩くので、やむなく私は眼を開けた。


「にゃー」


メニョが私を見下ろしている。両手には、メニョどんぶり。どんぶりで私を小突いたらしい。


「何だ何だ。飯の催促か。」

「にゃー」

「私のご飯は?」

「ぬー」

「私も腹減ったよう。」

「んー」


メニョはぐいぐいとどんぶりを私に押し付けてくる。まさか、ネコ缶を一緒に食べようというお誘いか。確かに、ブランド物の高級なネコ缶は、下手なツナ缶より美味しい気がするのだが…。いやいや、しっかりしろ、自分。我が家には現在そんな高級ネコ缶は無い。じゃなくて、ネコ缶で晩御飯は嫌だ。


「おなかが空いて、力が出ない。」


 私はメニョに申告した。婉曲に、飯を作ってくれと要求したつもりだ。メニョは賢いから、それくらい察するはずである。


 だが、メニョは私の想定の上を行った。察しても、察しないふりをしたのである。素知らぬ顔で、どんぶりを私にぶつけ続ける。何て賢いネコだ。世界で一番賢いに違いない。うむ、メニョはかわいい。


 私はむくりと起き上がり、メニョを抱きかかえてモフった。


「メニョは最高だなー。」

「ぬー」


メニョは迷惑そうに私を両前足で押し返した。ちぇっ、愛想のないやつ。折角褒めているのに。


 まあ、しょうがない。起きたことだし、とりあえずメニョのご飯をどんぶりに出そう。ネコ缶を開けて出すだけなので、楽ちんである。あっという間に準備が整う。私が起き上がって数分後には、メニョはご飯にありついた。


 私のご飯もこんな感じででき上がると良いのだが。喜んでどんぶりに顔を突っ込むメニョを眺めながら、私は嘆じた。雨の中、片道徒歩20分かけてコンビニに行くのは億劫すぎる。隣か向かいにあれば、ちょちょっと出かけて幕の内でも買って来るのだが。


「どうしたものかのう。」

「むにゃむ」


 メニョが口からぽろぽろと食べかけのネコ缶をこぼしながら、顔を上げた。旨いよ、と顔に書いてある。と、その時、天啓が下った。


「そうだそうだ、私も缶詰にしよう。」


 私はとり急ぎ大葉を多量に刻んだ。これは、毎年庭に勝手に生えてきてもりもり茂る野草である。しかる後に、ストックしてあった鯖缶を開ける。缶から鯖を数切れ皿に移し、薬味をこんもり載せる。後は、小皿に醤油とチューブわさび。お米は、昨日メニョが炊いてくれた残りが冷蔵庫にあるから、チンすればいい。フリーズドライの豚汁が残っていたから、そいつも食べよう。それからそれから、何と言ってもキリッと冷えた辛口純米酒。おお、私の晩御飯も、数分で出来上がったぞ。


 私は嬉々としてディナーを食卓に運ぼうとした。その時、背後から何かがのしかかってきた。


「にゃーう」


振り返れば、メニョが立ち上がって私に前足を掛けている。ついでに、右前足をひょいひょいと延ばして、何かを求めている様子だ。まあ、何かとは言っても、大かた見当は付いている。


「鯖缶食いたいんだろ。」

「にゃ」

「塩分があるから、ダメだよ。我慢しなさい。」


鯖水煮缶というものは、結構な塩気がある。それが美味しいのではあるが、ネコには毒だ。ところが、メニョは私から離れると、シンク前で立ち上がり、置きっぱなしの鯖缶をてしてしと肉球で叩いた。


「ぬー、ぬー」


何か言いたげなので、私は鯖缶を手に取って眺めた。何ということだろうか。食塩不使用、と書いてある。私はメニョをじろりとにらんだ。


「まさか、わざわざ選んで、これを買っておいたのか?」

「うにゃ」

「メニョ、ネコ缶食べたばっかりじゃん。」


私は指摘したが、返事の代わりにメニョしっぽがごすごすと当たる。ちぇっ。ご飯作ってくれないくせに。私のお代わりが無くなるじゃないか。


 私はぶつぶつ文句を言いながらも、残りの鯖を少しメニョどんぶりに入れてやった。鯖は別腹なのか、メニョは早速嬉々としてむしゃぶりつく。全く、しょうのないやつだ。


 でも、まあ、美味しいものはメニョと一緒に食べた方が楽しいか。私はメニョを眺めながら、鯖缶を突ついて一献傾けたのだった。

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