第32話
目に青葉、山ホトトギス、初鰹。このうち、ホトトギスについては、私はあまり知見を有しない。山ホトトギス、というくらいだから、奴らは主に山にいるんじゃないのか。私は駅から徒歩30分という微妙な立地の古家に住んではいるが、辺りは平たんな住宅地だ。山ではない。だから、ホトトギスもいないんではなかろうか。
だいたい、そんな毒にも薬にもならない野鳥は、ネコにでも任せておけばよい。奴らはスズメやらハツカネズミやら、小動物を狩るのが習性だ。ヒトたる私にとって大事なものは、ホトトギスより、青葉より、初鰹だ。カツオのたたきで冷酒をきゅっとやれば、初夏の喜びもひとしおというものである。
新聞に折り込まれたスーパーのチラシを見ると、丁度良いことにカツオのたたきが安売りだ。いい機会だ、そろそろ初物としゃれこもうかな。
「メニョ、今日はカツオのたたきにしようよ。」
私は身の丈4尺の飼いネコ、メニョに話しかけた。メニョは広げた新聞の上で、記事を読んでいるんだか居眠りしているんだか、半眼になっている。が、カツオと聞いて、耳だけがピンピンと反応した。
「今日、スーパーでカツオのたたきが安売りらしいぞ。」
私が畳みかけると、メニョはのそりと立ち上がった。新聞が多少乱れるが、気にしない。だって、ネコだもの。
私はメニョにチラシを見せた。皮目を焼かれた鰹のサクがぼーんと大きな写真で掲載されている。目玉商品のようだ。メニョは長いヒゲをひこひこさせながらチラシを検分していたが、ふいっとそっぽを向いてしまった。
「ぬー」
「え、要らないの?」
メニョって、カツオ嫌いだったっけ。いや、しかし、メニョがよく食べるネコ缶は、カツオが原料の物も多い。毎日残さず、むっちゃむっちゃ食べているではないか。まさか、食べ過ぎて、飽きたか?
「にゃー」
メニョはチラシを置いて、ネコ手でどこかを指し示した。私は肉球の先を見つめたが、台所があるだけだ。まさか、買い置きがあるのか?昨日の夜の段階では冷蔵庫にそんなものは無かったが。
「まだ買ってきてないだろ?」
「にゃー」
「え、なんだ、なんだ。」
私はメニョに背中を押されて、冷蔵庫の前までやってきた。開けてみろという顔をしているので、ぱかっと扉を開ける。すると、どうしたことか、カツオのりっぱなサクが冷えているではないか。
私はそれを取り出して、よくよく検分した。白いトレーに載って、きれいにラップを掛けられ、値札のシールが貼られている。メニョがどこかからお魚くわえて掠め取ってきたわけではなさそうだ。しかし、スーパーの特売品に比べると、随分とお高い。その上、皮が付いているけれど、焼かれていない。つまり、自分で皮をひん剥いて刺身にするか、自分で炙ってたたきにするか、いずれかの処置が必要なやつだ。
「これ、どうしたの?」
「ぬあーう」
そうか。分からん。
しかし、昨日の夜なくて、今あるのだから、その間に買われたものだろう。そう考えていると、メニョがすっとレシートを差し出した。レシートの打刻時間からすると、どうやら、私がぐうぐう昼寝している隙に買って来たらしい。
「んん…ああ、あそこの魚屋で買って来たのか。」
「にゃ」
「メニョはあの魚屋が好きだな。」
「にゃー」
メニョは思い出し笑いならぬ、思い出し舌なめずりをした。またぞろ、おやつをもらったのだろう。
メニョが行ったのは、スーパーではなく、近所にある個人の魚屋だ。当然ながら、メニョの日々の散歩コースに含まれている。ときどき、魚のアラにこびりついた身だとか、イワシの頭をもらったりしているらしい。何となく申し訳ないので、しばしばこうして買い物をして売り上げに貢献することにしている。スーパーよりちょっと高いが、その分美味しいので、お刺身は、こちらの店と決めている。
が、焼いてない皮付きカツオか…。
「たたきに、するんだよな?」
「にゃー」
「メニョの手では、無理だよな。」
「うーい」
カツオのたたきと言えば、本場の高知県なら藁でごうごう炎を上げているところに突っ込むのだろうが、さすがに我が家でそれはできない。藁もない。
となると、金串に刺して、ガスの強火で炙るというのが一番旨そうだが、ネコの手では金串は握れない。私がやるしかないか。
ガス台が脂や煤で汚れるだろうが、ま、掃除はメニョに任せよう。うむ。それなら、やってもいいか。
私は早速薬味を刻んだ。メニョには薬味は要らないが、私には必須だ。しかる後に、本番。金串をカツオのさくに打ち、ガス台の強火をオン。昨今のガス台は物が乗っていないと火が点かないらしいが、この年季の入ったお安いガス台にそんなお節介機能はない。ぼうぼう立ち上る炎に、カツオの皮目を当てる。バチ、バチと良い音がして、それらしい焦げ目が付いていく。それとともに立ち上る、香ばしい香り。良いではないか。我ながら、上手いんじゃないか。
ふと見ると、メニョが隣で立ち上がって、鼻の穴をひくつかせながら見守っている。
「あんまり近付くと、ヒゲが焦げるぞー。」
「なーう」
匂いに抗えないらしい。それはそうだろう。だって、ネコだもの。
いい感じに焼き目が付いたところで、私はカツオをまな板に置いた。アチ、アチと言いつつ串を抜いて、アツ、アツと言いながら適当に切る。もちろん冷やしても旨いのだが、焼き立ての香りを楽しむには、このまま生暖かい状態で食べる方が良い。
「にゃー、にゃーあー」
メニョが声を出し、前足を出し、激しく催促する。うむうむ。ネギなどの薬味が載ってしまっては、メニョには食べられないからな。今分け与えねばなるまい。
私はメニョの小どんぶりを出してきて、ぽいぽいと何切れか放り込んでやった。
「ネコ舌には、ちょっと熱いかもしれんぞ。気を付けて食えよ。」
「にゃああ」
私がどんぶりを置くや否や、メニョは早速かぶりついた。そこそこ冷めていたとは思うが、ネコ舌には熱いのか、時々口からぼろりとこぼしている。それでも、あっという間にがっついて完食してしまった。
ぺろり、と口の周りをなめつつ、顔を上げる。
「旨かったか。良かったな。」
「にゃ」
「じゃ、私はこれから薬味を乗っけて食うので、ガス台の掃除よろしく。脂がかなり散ってるから、しっかりな。」
「ぬー」
メニョはしっぽをパタパタ振る。何てこった。断られた気がする。
「く…じゃあ、お代わり、少しやるから。」
私はカツオを数切れ、メニョの前でひらひらさせて見せた。買収工作である。メニョは目の前を行き交うカツオを凝視している。食べたいに違いない。
「掃除、する?」
「…にゃー」
勝った。交渉成立だ。私はどんぶりにカツオを一切れ追加した。その途端、膝裏にしっぽがクリーンヒットする。
「ぬー」
「足りないのか…。」
やむを得ない。掃除と引き換えならば、もう少しの譲歩が必要か。くう、私のカツオが無くなっていく。これでは、薬味を食べるのだかカツオを食べるのだか、分からんではないか。
と、思いつつも、大喜びではむはむするメニョを見ていると、まあいっか、という気になってしまうのであった。
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