第31話

 通常の私は身の丈四尺の飼いネコ、メニョとのささやかな幸福について思いをはせているのだが、この度は一旦それをお預けにする。代わりに、付き合いの飲み会という、自由時間の仮面をかぶった残業について記録を残してみようと思う。このヘドロ色の行事との対比により、メニョとの満ち足りた時間が鮮やかに浮かび上がってくるものと確信している。


 そもそも、職場の飲み会なんてものは、その正体は仕事である。酒を注いだり注がれたり、マナーやら社交辞令やらで他者の顔色を伺って振る舞うなんてのは完全に仕事ではないか。そこらを飛び交う会話のネタも職場関係ばかりだ。時間外手当寄越せやコラと言いたいのに、逆に会費をがっつり取られるこの理不尽。この金でメニョとおでん屋に行きたいよ。


「また文句言ってるんですか、沢田さん。相変わらず、飲み会嫌いですね。」


 隣を歩いていた同僚が、何か言った。いかん、私の心の声が外に漏れていたのかもしれない。飲み会では口をきかないというのが、私の心を平穏に保つ方法だというのに。気を付けよう。


「飲み会の日は定時で上れるから、いいじゃないですか。って、沢田さんはいつも定時でしたね。」


 だらだら話し続ける同僚は、同じようにだらだら残業するタイプだ。なぜもっと工夫して残業しなくて済むように仕事を片付けないのか、不思議でならない。残業代が必要なのかもしれない。その辺りは、人それぞれに家庭などの事情もあろうから、口出しはしないが。


 私はむっつりと押し黙ったまま、会場の居酒屋に入った。見た感じ、和風。学生のコンパではないので、もう少し値の張る店だ。まったく、無駄な支出だ。この金で、メニョと焼き鳥屋に行きたい。


 メニョはネコであるから、焼き鳥を串から直接食べるのは下手糞である。私が串から外して、皿に出してやるのが通例だ。ひげをヒクヒクさせて焼き鳥を待つメニョの可愛らしいことと言ったら。ちょっと焦らせて、文句を言わせるのもまた乙。


「沢田さん、大丈夫ですか。お手拭き持ったまま固まって。」


 同僚に言われ、私は我に返った。メニョのことを考えすぎて、硬直していた。


 それにしても、職場でも隣なのに、なぜこいつは飲み会でも私の隣にいるのだ。こういう時くらい、離れたらどうなのだ。こいつは私に話しかけてくるから、面倒くさい。


「沢田さん、最初の乾杯から地酒ですよね。一緒に適当に頼んじゃいますね。」


こういう、不要な気の利かせ方もまた、うんざりするのだ。まあ、実際、乾杯のビールに付き合わされるのもお断りなのだが。ビールに罪は無いのだが、勝手にぬるいのを注ぎ足されるので、ビールグラスは手にしていても良いことがない。


 各人の前に飲み物が揃うと、役職者のどうでもいい挨拶が始まる。こういう時間は、メニョのことを考えて時間を潰すに限る。そろそろ、メニョもご飯食べたかな。ネコ缶を皿に出して冷蔵庫に入れておいたから、チンして食べることだろう。電子レンジはネコ手でも使えるから便利だ。今日は確か、かにかまの乗ったカツオマグロ缶だったかな…


「ほら、沢田さん、乾杯ですよ、ちゃんとグラス持って。」


 隣の同僚が、何か言う。私は自動操縦で冷酒のグラスを手にして、掲げた。メニョのことを考えて、心ここに在らず。


「沢田さんって、仕事きっちりしてるのに、こういう時ぼんやりですよね。電池切れですか。ごはん食べて、充電してくださいよ。」


 同僚が料理をぱくぱく口に放り込みつつ話しかけてくる。私の充電はメニョのモフモフによって行われる。ごはんだけでは何ともならない。だが、面倒だから、それを説明したりはしない。


 私も目の前に並ぶ料理を口に運んだ。メニョには作れない、芸の細かい料理。盛り付けも美しく、飾り包丁なんかもあったりして。美味しいし、きれいだけど、何だか寂しい。メニョのランダム乱切りを大雑把に煮たり焼いたりしたのを、大皿に山盛りにした料理が食べたい。しょんぼり。


 刺身が出てきたところで、私は箸を止めた。これ、メニョに持ち帰ったら、喜ぶだろうなあ。まあ、刺身の持ち帰りはできないだろうが。


「あれ、沢田さん、しめ鯖食べないんですか。頂いちゃいますよ。」


 隣の同僚が隙あらば私の獲物をかっさらおうとする。やはり、こいつは懐が寒くて満足に食うこともできていないのではないか。それで、やむにやまれず残業をするのではないか。私は急いでしめ鯖を口に運びつつ、ほんの少し同僚を案じた。巨大ネコを養える程度には給料をくれる会社のはずだが、何か訳があるのかもしれない。そんな個人の事情に首を突っ込みたくはないので、聞かないが。


 海老の天ぷらを噛みしめ、向かいの席の人々の話を聞き流し、冷酒をあおる。咀嚼している間は喋らなくていいので、気が楽だ。だから、常に何か口に入れている必要がある。するめとかだし昆布があれば良いのだが、そういう気の利いたおつまみは出てこない。よって、労せずに食べられる料理を敢えてよく噛むしかない。


「うわ、牛肉、めっちゃ柔らかい。旨―い。沢田さん、少しください。」

「お断りします。」

「殆ど喋らないくせに、やっと話したと思うとそれですか。もう少し優しさを持ってくださいよ。」


 私は石焼牛フィレ和風ソース仕立てをもぐもぐし、そっぽを向いた。このソースには玉ねぎが入っている。余計なことをしおって。メニョが食べられないじゃないか。むしろ、味なんかつけなくていいのに。こんな高そうな牛肉、メニョに食べさせたことが無いぞ。持って帰りたかった。


 ようやく、デザートの水菓子にたどり着き、私はほっと息を吐いた。そろそろ、終わりだろう。


「沢田さん、こっちのキウイも食べてくださいよ。酸っぱいの嫌いなんです。」


隣の同僚は、最後まで諦めずに干渉してくる。こいつは、私に冷たくあしらわれるのが快感なのか。キウイは好きだし、しょうがないので2切れめのキウイをもぐもぐする。


「大河内さんは沢田さんと仲が良いですねえ。」


 向かいの席の人が、妙な感想を述べる。事実誤認だが、訂正するのも面倒くさい。些末なことのために、騒がしい飲み会で大声出して説明する意欲は無い。隣の同僚が何か釈明しているが、まあ、好きにすればよい。


 そんなことより、デザートも終わったし、さっさと帰りたい。さあ、一本締めでもイッポンシメジでも良いが、さっさと済ませて帰ろう。ちなみにイッポンシメジは毒キノコだ。


 そんなことを考えて気を紛らわせているうちに、やっとお開きになった。やった。この時を待っていた。私は敢然と立ち上がり、疾風のようにその場を立ち去ろうとした。その私の腕を引っ張る者がいる。


「沢田さん、二次会行きましょうよ。ウイスキーの美味しいバーなんですって。禁煙で、おつまみも気が利いてるらしいですよ。」


 何だと。それは気になる店だ。ついでに、ネコ入店可だと尚良いが。


「店の名前は?」


私は振り返り、尋ねた。そして、同僚から教えられた店名を心に深く刻み込んだ。これで、もう用は無い。私は手を振った。


「では、さようなら。」

「え、行かないんですか。興味津々じゃないですか。ほら、行きましょうよ。今日は帰しませんよ。」


隣の同僚が追いかけてきそうなので、私は身を翻し、駆け足で駅に向かった。サラリーマンたるもの、なけなしの体力はここぞという時に使わねばならぬ。おイッチに、おイッチに。私は駅に駆け込み、丁度良く滑り込んできた列車に飛び乗った。ふー、これで安心。サラリーマンの責務も果たしたし、あとは家でメニョといちゃいちゃして、この擦れ切った心を癒すだけだ。


 私は座席に深く身を沈め、メニョのもふ毛に意識を飛ばしたのであった。

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