第30話

 日曜日は市場へ行って糸と麻を買って来る。月・火曜は風呂、水・木は友達と遊び、金・土はサボり。そんな、陽気に歌いたくなるような生活を送っていない私は、月から金までは憂鬱なのが通例である。多少の濃度の差はあるが、平日の朝は灰色と相場が決まっている。サラリーマンたるもの、毎朝の鈍重さに耐え、心を常に無にして惰性で出勤できるよう、自らをロボット化しておくことが肝要である。


 とはいえ、今朝の私の気分はいつもにも増して重く沈んでいる。断っておくが、二日酔いではない。我が家の身の丈四尺の飼いネコであるメニョは、私が二日酔いするほど飲むことを許可してくれない。無論、私だって二日酔いは嫌いだが、たまにはしこたま飲みたい日だってあるのに。そもそも、私は割と酒に強いので、そうそう二日酔いにはならない。もう少し飲んだって、平気なのだ。それをメニョときたら、もう。


 話が逸れた。目を逸らしたい現実があるせいだ。


 私はメニョが作ってくれた朝ごはんを前に、ため息をついた。ネコ爪で大雑把に引き裂いた大葉とじゃこが乗っかった白ごはん。昨日の残りの、具の煮溶けた味噌汁。ニンジンとキュウリの乱切りのしょうゆ漬け。これは多分、お弁当にも入ってるだろう。まるで旅館の朝ごはんのような、バランスの良い朝定食ではないか。やっぱり、メニョごはんは最高だ。

だというのに。


「はああ~。」

「んー」


溜め息ばかりついていたら、メニョが立ち上がって、ぬっと食卓に顔を出した。自分のカリカリは食べ終えたらしい。


「メニョよ。今日は外で食べてくるから、晩御飯作らなくて良いよ。」


 私はじゃこご飯をもぐもぐする合間に、ぼそぼそと伝達した。前もって伝えてはあったが、最後通牒だ。


 そうなのだ。本日は職場の飲み会なのである。私は飲み会の誘いはほぼ全て断るのだが、年に1度の歓送迎会だけは出ることにしている。悲しいかな、サラリーマンたるもの、意志に反するしがらみに縛られることもある。


「帰りが遅くなるから、メニョの晩のネコ缶は、どんぶりに出して冷蔵庫に入れとくよ。チンして食ってくれ。」

「にゃー」


 私はメニョをじっと見つめた。ネコは表情が乏しい。ぷいぷいと揺れるしっぽが何を言いたいのか、全く分からん。私は、家でメニョをもふりつつメニョご飯を食べる喜びを奪われ、寂しく、悲しく、しょんぼりなのに。メニョは、そんなことないみたい。ネコは基本的に単独行動をする生物であるから、ひとりでお留守番くらい、何とも思わないのだろうか。貴方のいない夜なんてさみしくて涙で枕を濡らしてしまうワ、くらい言って欲しい。言われたところで、ネコ語は分からないのだが。


 私はため息が漏れるに任せたまま、食事を終え、皿を洗い、歯を磨いた。そろそろ時間だ。行きたくないけど、会社に行かなくてはならぬ。仕事だけでも拒否反応で全身に発赤が出そうなのに、夜の宴会付きだなんて。あーあ。


 私は通勤鞄にお茶とメニョ弁当を詰め、玄関に向かった。自然と、肩が落ちて背が丸まる。


 そんな私の足元に、メニョがやってきた。ぬるぬるとまとわりついて、私のズボンにネコ毛をなすりつける。


「ん、どした?」

「うなー」


何だか分からないが、妙にくっついてくるので、なでなでしてやる。そのうち、メニョは私に前足を掛けて立ち上がった。右手も伸ばして、うーんと伸びる。伸びがしたいのか、何かを求めているのか、判然としない。が、とりあえずかわゆいので、ちょっと屈んでぎゅうと抱きしめておく。温かいもふもふが、心地よい。


「メニョよ、どんよりな私を慰めてくれているのか。良いやつだなあ。」

「ぬー」

「え、違うの。」


やっぱり、ただ伸びたかっただけか。まあ、いいや。少しだけ、気が晴れたし。


「じゃ、いてきまーす。」

「にゃー」


 メニョに見送られ、私は苦行へと旅立った。


 定時までは自動運転で仕事をこなし、その後の飲み会ではひたすら心を無にし、ただ時が過ぎるのを待つ。宴席で酒を飲んでも、メニョと飲むほど楽しくない。汲み上げ湯葉より、メニョがパックごと丸茹でにした充填豆腐の方が美味い。揚げたてサクサク天ぷらより、メニョが肉屋で買ってきてチンしたふにゃふにゃコロッケの方が満たされる。あーあ、早く帰りたいなあ。


 ひたすらメニョに思いをはせ、無益な時間を潰すこと数時間、漸く私は宴席から解放された。


 やったー、終わったー。2次会がどうこう言っている連中に目もくれず、私は一目散に退散した。一刻も早く帰宅し、メニョをスウスウ吸って充電しないと、私の内蔵電池が切れてしまう。

 

 私は飛ぶような勢い、のつもりで電車に揺られた。駅からは走って帰りたいところだが、いかんせん、運動不足の中年ボディでは叶わぬ願いだ。いつも通り歩いて帰ろう。


「ああ、早くメニョに会いたいなあ。」


 駅を出たところで、私は呟いた。すると、


「にゃー」


と聞き慣れたネコの声。と同時に、巨大な四つ足生物が暗がりからぬうと現れた。トラのようでいて、メニョである。メニョはぬりぬりと私の脚にすり寄る。


「おお、メニョ!駅までお出迎えか。」

「にゃ」

「うう、嬉しいぞう…。」


 私は感動のあまり、激しくメニョをなでもふった。まさか、こんなところで簡易充電できるとは。嬉しすぎて、屈んでメニョの匂いをすうすう吸ってしまうではないか。うーん、ちょっぴり甘いお日様の匂い。私に必要なのは、これですよ。私の中身が満たされていくのを感じる。


 うむ。やる気が出た。私はすっと背筋を伸ばした。


「よーし。じゃ、帰るか。」

「にゃーい」


 私はメニョと連れ立って、自宅への道を歩き出した。心のスイッチ、オン。やっと生き返った心持ちだ。やっぱり、メニョがいなくちゃ始まらない。

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る