第29話
春というものは、概ね喜びに満ち溢れている。寒く暗い冬を乗り越え、温かく花咲き乱れ、来るべき実りのために種を撒く。日ごとに陽は長くなり、人の心は浮足立つ。おお、生命の春よ。私は別に、好きじゃないぞ。
そうなのだ。私は冬が好きなのであって春はどうでもよい。何しろ、春は花粉が飛ぶし、黄砂は舞うし、紫外線は強い。私は分かりやすいくしゃみ鼻水は無いのだが、ぼんやりと全体的に不調になる。憂鬱だ。
そんな私の心を奮い立たせるものと言えば、タケノコである。この春の味覚のおかげで私は幾度救われたことか。今週末あたり、朝一でスーパーで買って、あく抜きでもしようかな。仕事帰りだと、古くなっているので買う気になれないのだ。
「ただいまー。」
「にゃー」
タケノコに心を寄せつつ帰宅すると、玄関で身の丈四尺のネコ、メニョが私を出迎えた。うむ、いつもながら感心な態度だ。三つ指どころか、五つ爪ついてのお迎えである。メニョはそのまま、ぬるぬると私の脛に毛と匂いを塗り付ける。私はその労をねぎらうべく、もふもふとそこかしこを撫でまわした。
「ん?コメの匂いがする。」
私はくんくんと鼻を鳴らして、台所方面を眺めた。ご飯を炊いているだけにしては、米臭が強い。
「今日はおかゆごはんか、お米ライスか。ちょっときついなー。」
「んぬあー」
メニョ語からは回答を読み取れない。私はすたすたと台所に向かった。
すると、小ぶりな寸胴鍋に包丁が突っ込まれて煮えていた。いや、もう火は消えて、冷めているようではある。しかし、今宵の晩のおかずが包丁の丸茹ででは困る。
もう少し近付いて見ると、鍋は泥水のような不透明な液体で満たされていた。その中に、タケノコと、包丁が静かに沈んでいる。
「メニョ、タケノコのあく抜きしたのか。」
「にゃー」
「包丁も煮えてるんだけど。」
「…」
メニョはしっぽを振って、私の膝裏を叩く。何の意図かは分からねども、何か言いたいようだ。
私は真実を明らかにする前に、とりあえず部屋着に着替え、手を洗った。敵は手ごわそうだ。こちらも臨戦態勢が必要であろう。
準備万端の私は再度台所に立った。鍋の中身はぬかるみ、状況の把握は難しい。完全に冷めているようなので、あく抜きは完了ということにして、私は鍋の中身をシンクに流した。中から現れたのは、包丁が深々と抉り込まれたタケノコである。そして、肝心かなめのタケノコは、穂先が落ちていない。あく抜きをするときは、通常、穂先は斜めに切り落とすものだ。
「メニョよ、タケノコが硬かったか。」
「にゃ」
ネコ手で包丁を挟み、思い切りよく振り下ろしたものの、途中で止まり、にっちもさっちもいかなくなったのだろう。かつてはカボチャでそのような戦いが繰り広げられていたものだ。カボチャの食い込んだ包丁を振り回しつつネコがそこらを歩き回るのは、ヒトにとって脅威である。だから、最近はカボチャは買って来て早々私が適当に刻んでしまう。
私はまな板の上でぐいぐいと包丁を押しこみ、今更ながらタケノコの頭を切り落とした。ふわん、とタケノコの香り。頭を落とさなくても、アクって抜けるのかしら。そんな一抹の不安はよぎるが、なに、多少のえぐみは春の味。メニョが処理してくれたタケノコが美味しくないわけがない。それに、もしかしたら、包丁に含まれるなにがしかの成分がタケノコの美味しさを引き立てるかもしれない。誰も試したことがないだけで、可能性は否定できないではないか。ぬか床に釘を入れるようなものかもしれぬ。
「にゃうー」
「お、お出汁があるのか。そこに突っ込めってか。」
私はタケノコを適当に剥いて切り、メニョの用意しただし汁にぽちゃぽちゃ投入した。全部行くと多そうなので、半分くらいにしておく。
「残りはタッパーに入れとくから。もう柔らかいし、メニョでも切れるぞ。」
「うにゃ」
タケノコの残りを冷蔵庫に入れ、私は改めて台所を見渡した。コンロの上に、タケノコがくつくつ煮えている。良い香り。それはさておき、今日の晩御飯は?
「メニョ、今日はタケノコだけか。」
「ぬー」
「そうか…。」
ネコにお勝手を任せていれば、こんな日もある。でも、ちょっとさみしい。
どうしようかしら。私は腰に手を当てて考えた。その私の膝裏を、またもメニョしっぽが殴打する。
「にゃ、にゃ」
「何だ、メニョのご飯か。」
「にゃあー」
「しょうがないなあ。じゃあ、今日はカツオにしよう。」
私は自分の夕飯の件を保留し、メニョのネコ缶とカリカリを準備した。メニョ用どんぶりに缶詰とカリカリを盛り付けて、居間に持って行く。
そこで、私は食卓の上の存在に気付いた。土鍋がどんと置いてある。私はメニョどんぶりを片手に持ったまま、土鍋の蓋を開けた。ほわん、と湯気の中から、ほんのり蒸されたキャベツとさつま揚げが現れた。いやん、美味しそう。
「なんだ、メニョ、タケノコ以外にもおかずあるじゃん。」
「ぬー」
「もう、焦らせちゃってー。」
私はメニョをつんつんした。メニョはうろうろと、落ち着きがない。
「ぬーう」
「ああ、すまんすまん、ご飯だったな。」
私は片手に持ったままのメニョどんぶりを、メニョの食事台に乗せた。床に直置きだと低くて食べにくそうだから、私が適当な材木をボンドでくっつけて作ったものだ。我ながら、ネコ思い。
メニョはやれやれ、とでもいうかのようにため息をついてからどんぶりに顔を突っ込んだ。ちゃむ、ちゃむ、と小気味の良い音が聞こえてくる。
よし、そろそろタケノコも煮えたであろう。今日は春の味覚で冷酒としゃれこもうかな。
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