第13話

 会社を出た私は、コートの襟を立てて首を亀のようにすくめた。今日は随分と冷える。空を見上げると、白い物がちらほらと舞い降りてくるのが見えた。私の暮らす地域で根雪はあり得ないが、これは少し積もるかもしれない。積もったら、電車は動くけど、歩きにくくて出勤できないから、休みにしよう。サラリーマンたるもの、与えられし休暇を有効に活用し、心身をリフレッシュすることも重要な責務である。


 自宅の最寄り駅から徒歩30分の道のりをせかせかと歩いても、足先指先までは温まらない。こんな日は、鍋だよな。帰ったら、鍋の支度ができていると良いなあ。あとは、自分で熱燗をつければいい。おっと、フグヒレを先日購入したところだから、今日はヒレ酒としゃれこもうではないか。うっしっし。


「ただいまー。」


 私はヒレ酒で頭の中を一杯にして、玄関の戸を開けた。その途端、ぷうんと異臭が漂ってくる。これは、灯油のにおいだ。何だ何だ、自暴自棄になって他人を殺しつつ自分も死のうというはた迷惑な輩が我が根城に攻め込んできたのか。築63年の木造だから、よく燃えちゃうぞ。


 奥の居間から、我が家の身の丈四尺のネコ、メニョがとぼとぼと歩いて出てきた。両腕を広げ、身の丈四尺のメニョをもふん、と抱きしめると、灯油臭い。もふもふは良いが、灯油臭いのは好かん。


「メニョ、どうしたんだ。臭いぞ。」

「ん-…」


しょんぼりしている。耳と髭がうなだれている。


 私は靴を脱ぎ、居間に向かった。居間の真ん中には、灯油ストーブが置いてある。何しろ、築63年の賃貸古家であるので、エアコンなどという文明の利器は無く、エアコンを設置するための穴も壁に開いていない。自ずと、コタツとストーブに落ち着く。メニョもエアコンよりストーブが好きだ。


「んん?びしょびしょ…。」


 私はストーブのそばに寄った。給油口の周りの床が濡れている。水、ではない。灯油だ。すぐそばに、青いポリタンクも置いてあるし。


「ああ…給油しようとしたのか。」

「にゃ」

「で、失敗した、と。」

「ぬー」

「ちょっと、レベル高かったな、これは。」


私はポリタンクに突っ込まれたままのポンプを眺めた。握り手が赤い、古式ゆかしい手動タイプである。ストーブを買った際におまけで付いてきた物だ。


 このタイプのポンプで灯油を適切に入れるのは、結構難しい。何度か赤いところをにぎにぎして、うまい具合に流れ始めたら入れすぎないように絶えず監視し、丁度良い量になる直前で頭のねじを回して止める。あるいは、余裕をもっと持たせて、7分目くらいまで入った時点でタンク側のポンプの先を引き上げて管内に残った灯油を入れ切る。握ったり摘まんだり、ヒトの手で行うことを想定した道具なのだ。まったく、バリアフリー…いや、ネコフリーという概念がない。けしからん。メニョがやりたがるので、何度か私の指導の下で練習を積んできたが、やはり単独で行うには無理があるようだ。


「まあ、気を落とすなよ。とりあえず、掃除しちゃおう。」

「うい」


 私は床の灯油をロールペーパーでせっせと拭き取った。メニョが広げているポリ袋に使用済みのを放り込んでいく。ストーブの下にも広がっているから、私がちょっと持ち上げて、メニョがその隙に拭く。最後に、何となく怖いので、こぼしたところから離してストーブを置いておく。


「ふー。」

「ふー」


共同作業を終えた我々は、揃って一息ついた。ふたりでやると、早い。染みてしまった分はまだ臭いけれど、こればかりは揮発するのを待つしかない。


 私は洗面所に行き、お湯とせっけんでごしごしと手を洗った。灯油のにおいはなかなか取れない。何度か洗いを繰り返して、やっとこさ人心地。


「メニョ、お前も手を洗いなさい。臭いだろ。」

「にゃー」

「ん、もう洗ったのか。」


メニョの前足がびしょびしょである。台所で洗ったらしい。しかし、それにしては臭う。


 私はメニョの毛皮に鼻を近付けた。もふもふのメニョ毛皮の好い匂いをマスキングして、はっきりしっかり灯油臭い。メニョ全体が灯油臭いのだ。


「メニョ、臭いぞ。灯油が毛皮に散ったんじゃないのか?」

「ぬー…」


心当たりがあるのか、メニョはふいっと顔を背けた。しっぽが落ち着きなくばたばた揺れている。


「メニョ子。臭いです。お風呂入りなさい。」

「…」

「自分で入るか、私が洗うか、どっちが良い?」

「…」


どっちも嫌だ、としっぽが言っている。


 とはいえ、自分で自分が臭いのも気になるのか、全力で逃げることもしない。どうやら、葛藤しているらしい。ここはひとつ、寛大なる飼い主としては、背中を一押しするべきだろう。


「よし、分かった。お風呂入ったら、自動停止機能付きの、高性能な給油ポンプ買ってやる。」


世の中には、ガソリンスタンドのあれみたいに、丁度良いところまで給油すると勝手に止まる電動灯油ポンプがあるのだ。存在は知っていたが、何となく胡散臭くてまだ手を出していなかった。手動ポンプに信頼を置いてしまうあたり、私も昭和の遺物ということかもしれない。


 が、ネコのためとあらば、新機軸にも挑戦すべきであろう。我ながら、ネコ思い。部屋と毛皮が臭いのも嫌だし。


 私の提案を受け、メニョは数分しっぽを振ってもじもじしていたが、風呂に入ることにしたらしい。自分でバスタオルを数枚出してきた。


「よし。じゃ、ストーブ付けて部屋あっためとくよ。」

「うぬー…」


風呂に向かうメニョを見送り、私は居間のストーブに火を入れた。ストーブの上にやかんを置いて、と。


 やれやれ。今日はメニョにはご飯を作る余裕はなさそうだ。私はメニョ鍋を諦め、灯油臭に負けないカレーを作ることにした。もちろん、ヒレ酒も中止だ。香料どっさりの缶チューハイにでもしよう。

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