第14話

 私が暮らすのは築63年の木造賃貸古家である。エアコンなどという文明の利器は無い。加湿器・コンロ・暖房の3機能を具備した灯油ストーブこそが正義。あとは、退廃の象徴であるコタツもあったりするが、一度入り込むとその深みから抜け出すのが困難であるため、なるべく近寄らないようにしている。私は自堕落で意志が弱いが、それを自覚しているので、罠には近付かないという分別を兼ね備えているのだ。


 私は赤く熱されたストーブの上からやかんをどけて、代わりに鍋を置いた。炒め玉ねぎ、にんじん、カボチャ、ジャガイモ、しめじ、手羽元が入った汁である。味付け次第で未来の形を変えられる、多能性汁だ。iPS - Soup。とはいえ、今日はもう行く先は決まっている。カレーだ。何しろ、床に灯油がこぼれて、家中灯油臭さが抜けていない。これに打ち勝つのはカレーしかないでしょ。


 さて、と私はストーブの前でもうもうと立ち上る湯気を眺めた。ストーブの上ではない。繰り返すが、前である。風呂に入って全身ずぶ濡れのネコが、ストーブに当たりつつ毛皮をなめなめしているのだ。何しろ、身の丈が四尺もあるので、水分の含有量が並大抵ではない。火にあぶられた毛皮からもくもく、もくもく、白い蒸気が止まない。部屋を加湿し過ぎじゃないかと思う。


「メニョ、綺麗になったか。」

「ねろ、ねろ、ぺろ、ぺろ」

「ドライヤーすれば。」

「ふううう」


 メニョは不機嫌そうに唸った。濡れるのが嫌いなネコがずぶ濡れなのだから、不機嫌なのは妥当である。早く乾きたいならドライヤーを使えば良いと思うのだが、どうにもあの音が苦手らしい。メニョはネコだから耳が良いので、掃除機とか、ドライヤーとか、大きなモーター音は避けがちだ。


「灯油こぼしたところには乗るなよ。風呂に入った意味が無くなっちゃうからな。」

「にゃ」


 メニョはちらっと床の上の新聞紙を見た。


 本日、メニョはこのストーブに給油しようとして、手動灯油ポンプの操作に失敗し、盛大に灯油をこぼした。おかげで家は灯油臭いし、メニョも灯油臭いし。メニョは風呂に入らせて、床にはとりあえず新聞を敷いておいた。こぼれて床に染みた灯油を、メニョの毛皮がまた吸収してはかなわない。


「ほらほら、頭ばっかり乾いてるぞ。尻が乾きにくいんだから、尻もあぶれよ。」

「うぬー」


 ネコというものは、とかく顔を重視する。顔のある場所が、全身のある場所ということになっている。だから、メニョも仔猫の頃は、顔だけ猫トイレに入れて尻がトイレに入らず、大便がトイレの外に転がったりしたものだ。今も、顔をストーブであぶってホカホカして、身体全体が乾いたような気になっている。が、実のところ、やはり尻が日陰になっていて、全然乾いていない。


「ほれほれ。」

「ぬー」


大きくて重たいメニョを持ち上げて、くるりと回して尻をストーブに向ける。ほかほか、尻としっぽの裏から湯気が出る。が、すぐにメニョは回れ右してしまう。


「尻がべしょべしょだって。それとも、しりあなは毛がないから、火に当たると熱いとか?」

「ねろ、ねろ、ぺろ、ぺろ」


メニョは私の推論には答えず、既に乾きかけの肩の辺りを一生懸命なめている。触ると、唸る。とってもご機嫌斜め。ちぇっ。灯油をこぼしたのは、自分じゃないか。


 私はメニョが相手をしてくれないのでつまらなくなり、汁の具に火が通るまでコタツのご厄介になることにした。ただし、この退廃の神器に身を委ねつつ酒を飲むととろけすぎる危険があるので、缶チューハイの持ち込みは自らに禁じた。我ながら、なんと自律できる大人であることか。でも、おなか空いたから、ミカンで急場をしのぐ。


 コタツに足を突っ込んで、ちょっと離れた場所のストーブとその前のメニョを眺めて、ミカンをもぐもぐ。何だか、とろりと良い気持ちになって来た。おかしいな、酒は飲んでないはず…いや、しまった。そう言えば、料理用のブランデーを手羽元に振りかけつつ、ついういっかり少し飲んでしまっていた。これは、まずい。コタツの魔の沼から逃れられない。いかん、寝たら死ぬぞ。立ち上がれ、自分…



「にゃー、にゃー」

「ん、んむー…。」


 私はメニョに肩をゆすぶられて、眼を開けた。もう朝か。と思ったけれど、夜だ。カレーの良い香りがする。そこでようやく私は、自分がコタツの魔力に負けていたことを悟った。


 ストーブの上には、既に鍋は無い。火力が強いので、ルーを溶いた後のカレーは焦げてしまうのだ。ストーブはやかんに譲って、鍋は台所のガス台のとろ火でくつくつ煮えている。


「ああ、メニョ、カレー作ってくれたのか。」

「にゃーう」

「ありがとなー。」


私はメニョをぎゅうと抱きしめた。風呂に入って、乾かして、ただでさえもふもふの毛皮が限りなくふわっふわに仕上がっている。すうすう吸うと、良い匂い。洗いたての毛皮に埋もれる、この喜び。私と同じシャンプーを使っているはずなのに、この仕上がりの違いは何であろうか。私の髪はこうはならない。ぼさぼさになるだけだ。


「ぬー」


メニョに両前足でぐいぐい押され、私は渋々メニョから離れた。しょうがない。おなかも空いたし、カレー食べよう。


 もぞもぞコタツから這い出して、食卓に着くと、メニョがカレーライスをこんもりよそって持ってきた。ご飯の上には、私が百均で買ってきた小さい旗が立っている。これが、何か、嬉しいんだよな。


「あ、そうだ。チューハイ、ちゅうちゅうたこかいな。」

「ぬー」

「えー、ダメ?ブランデーはそんなに飲んでないぞ。いいじゃん。」

「ぬー」


メニョがぱたぱたしっぽを振って抗議するので、私はやむなく、一旦チューハイを諦めた。コタツでうたたねしたのが、まずかった。メニョはこういうところが厳しい。


 しょうがないので、私はメニョのどんぶりにネコ缶とカリカリを出し、メニョに供した。そして、メニョがネコ缶をちゃむちゃむ食べているのを確認し、自分はカレーを食べるふりしてそっと席を立つ。この隙に、チューハイをば。


「うなーう」


バレた。ちぇっ。

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