第11話

 その日、私は朝から憂鬱だった。正確に言えば、前日の昼頃から鬱々としていたのだが。


 職場の朝礼の伝達事項は右耳から左耳へ流れ出て消え、パソコンの画面の文字を目で追うも理解できず、私に内在する小人さんがいなかったら何一つ仕事が進まないありさまである。人間、誰しもメンタルやフィジカルが不調になる時期はある。サラリーマンたるもの、そういう時に備え、無意識下で一通りの仕事がこなせて一人前である。


 昼休みの鐘が鳴り、いつの間にかそれなりの品質で仕上がっていた書類の束を隅に寄せ、私は通勤鞄から弁当箱を取り出した。ぱかっと開いて、良い香りがするも、心は浮かばれない。


「あれ、沢田さん、今日は食材が調理されてますね。珍しい。」


 隣の同僚は、毎日私の弁当をのぞき込んでは余計なコメントをくれる。同僚の昼食はほぼ毎日コンビニで仕入れられ、本日はニンニク臭いスパゲチーを啜っている。昼にそんなものを食って、午後の来客との打ち合わせをどう乗り切るつもりであろうか。


 私は箸を取り出し、もそもそと弁当を口に運びだした。本日は、昨日の残りの親子丼。玉ねぎいっぱい。つまり、我が家の身の丈四尺の飼いネコであるメニョではなくて、私の自作弁当である。でかい身体でも、ネコに玉ねぎは調理できない。


「何でそんなに浮かない顔なんですか。今日はうまそうなのに。」


 同僚はお湯で溶いたインスタントコーヒーを飲みながら、首をかしげる。確かに、お出汁と、鶏肉と、海苔の香りが良いハーモニーを奏で、手前味噌ながら、うまそう、ではなくて実際にうまい親子丼である。毎日ネコに飯を作らせている私だが、別に料理は嫌いでも苦手でもない。そもそも、その辺に落ちていた仔メニョを拾って、それなりに成長するまでは、一人で自炊していたのだから当たり前だ。


 溜め息をつきながらランチを終え、また小人さんに我が身体と精神の操縦を委ねて数時間、私が社に拘束される時間は終わった。知らん間に、いろんな仕事が問題なく片付いていたが、記憶にございません。


 暖かい社屋から外に出ると、寒風が身に染みた。たぶん、家に帰っても、今日もメニョ飯は無い。そう思うと、余計に寒さが体の芯に突き刺さる。


 メニョは、昨日の昼頃から風邪っぽくて、私のベッドのど真ん中を占拠してずっと寝ている。メニョ用の布団もあるのだが、何故か体調が悪くなると私のベッドを使うのだ。仔ネコの頃は私の布団で一緒に寝ていたから、何となく安心できるのかもしれない。


 そんなわけで、私は三食自分で用意して、一人で食べて、しょんぼりしているのである。いつもはぬくぬくな焼酎お湯割りも、今は私の心を温めてはくれない。


「そう言えば、冷蔵庫が空っぽだった…。」


私は独り言をつぶやいて、自宅の最寄り駅のそばのスーパーに寄った。いつもなら、メニョが買うものをメモしてくれるか、あるいは、メニョが自分で買いに行くかである。自分で必要なものを考えながらスーパーを歩くのは久しぶりだ。


 しかし、気分が落ち込んでいるので、食材を買う元気が湧かない。どれもこれも、要らない気がしてしまう。


「いかん、いかん。ちゃんと食べないと、メニョに怒られる。」


私は頭を振って、考えるのをやめて、目に付いたものを手当たり次第に籠に放り込んで、セルフレジで精算を済ませた。


 何を買ったかあまり記憶にないが、お買い物袋が妙に重い。とりあえず、下仁田ネギがにょきっとはみ出しているところからすると、メニョが寝こんでいる隙にネギを食べようという意欲はあったようだ。


 徒歩30分の道のりをとぼとぼ歩いて、築63年の賃貸古家にたどり着くと、やはり明かりは灯っていなかった。メニョはまだ寝ているみたいだ。しょぼん。


「ただいまー…。」


小声で呟いて、私は家に上がり、台所で収穫物を確認した。何買ったっけ。


 下仁田ネギ、豆腐、春菊、しらたき、椎茸。どうやら私は鍋が食べたいようだ。かと思うと、マグロのブツとサラダチキンといかの塩辛という高蛋白質低カロリーなおつまみ系が顔を並べ、ロッテのラミー、みかんたっぷりゼリー、おはぎという甘味どころも充実し、何だこのカオスは。無計画に欲望の赴くままというのがバレバレである。


 腕を組んでうなっていた時、たしたしと肉球の音が聞こえた。


「ぬー…」

「おお、メニョ!元気になったか!」


 膝裏をぬるりとなでる感触に、私は欣喜雀躍の声を上げた。メニョがのたのたとした足取りで床の上を歩いている。起きられるようになったらしい。メニョはのそりと後ろ足で立ち上がって、私の買い物一覧を確認した。


「ふー…」


しっぽが不満げに揺れる。


「何だよ、そのため息。良いから、今晩は寝てろよ。自分で作るからさ。」

「にゃ」

「ん、マグロ?食べられそう?」

「にゃー」


昨晩も今朝も、メニョは殆ど食べていなかった。食べる前からネコの吐き戻しみたいな様相の、レトルトパウチのどろどろネコ飯を少し口に運んだだけだ。マグロを食べたがるなら、大分元気になった証拠だろう。


 私は俄然やる気になった。よし。私はメニョが食べやすいようにマグロのブツを少し刻んでやり、その残りで自分のネギマ鍋をこさえ、山廃純米酒で熱燗を付けた。


「はふ、はふ。うまいなあ、メニョ。」

「ちゃむ、ちゃむ、んんー」


 メニョもマグロを満足そうに食べている。少し足してやったネコ用レトルトも、何とか食べられるみたいだ。ぬる燗ならぬ、ぬるい湯もぴちゃぴちゃ飲んでいる。ああ、メニョが元気になって良かった。メニョが元気だと、お酒も旨い。やっぱり、冬はネコと鍋と熱燗ですよ。塩辛もあるし。


 風呂あがり、ほろ酔いの残った私は湯冷めする前に布団に入ろうと、ベッドに直行した。昨日は、私が小児用サイズのメニョ用布団で寝ざるを得なかったが、今日はのびのびと自分の布団で寝られる。


 と思ったら、メニョが私の布団の中で丸くなっているではないか。でも、昨日と違って、ど真ん中ではない。ちょっと、隅に寄っている。私は布団の上からメニョをぽふぽふと撫でた。


「久しぶりに一緒に寝るか。ちょっと狭いけど。」

「にゃー」


布団から顔を出してメニョが返事をする。


 私は布団の中に入った。丸くなっているメニョをぎゅうと抱きしめる。メニョはとてももふもふで、とても柔らかくて、とても温かい。狭いベッドゆえ、布団から背中がはみ出して寒いけど、心はぽかぽかだ。やっぱり、ダブルベッド、買おうかな。良く響くゴロゴロ音を聞きながら、私は今年の冬のボーナスに思いを馳せたのであった。

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