第10話

 春眠暁を覚えず、と言った清少納言は偉い。朝眠いのが春だけで済むなんて。私は年がら年中、暁ばかり憂きものは無しである。ずっとお布団で惰眠をむさぼっていたい。


 が、寄る年波には勝てぬ。中高校生の頃は、ぶっ通しで昼過ぎまで寝ていたものだが、加齢臭が気になる今ではとてもそんなことはできない。何故ならば、荒ぶる尿意に打ち勝てないからである。


 今日も今日とて、折角の休日なのに、私はちゃんと朝に目を覚ました。トイレに行って用を足せども足せどもすっきりしないという、苦行のような夢が私うつつに追いやったのだ。目を覚ませて良かった。あやうくおねしょになるところだった。


 私はずるずると掛布団のはざまからにじみ出るようにしてベッドを降りた。布団のぬくもりを残しておいて、後で二度寝しようという魂胆である。


「さぶ、さぶ。サブちゃんの歌が好き。」


 北島三郎氏のことは別に好きではないが、私はトイレに向かった。ドアノブをひねって、トイレの戸を開けた私は、がっくりと肩を落とした。その拍子にうっかり尿道付近の筋肉が緩みそうになり、慌ててぎゅっと引き締める。


「メニョ、急いで急いで。」


 トイレの便座に四本足で踏ん張っていたのは、我が家の身の丈四尺のネコ、メニョである。ネコなので、排便の様態を私に観察されたところで何とも思わないらしい。メニョはトイレに鍵をかけることはしない。以前は戸も閉めてくれなかったが、食事中に大便のニオイが漂ってきたときに文句を言ったら閉めてくれるようになった。ちなみに、私はちゃんと鍵を掛ける。だって、用足しの最中に開けられたら嫌だもん。


 おっと、そんなことを考えていたら、尿意がかなり危険水準まで高まってきた。朝の冷え込みが、私の尿意を険しくする。私は内股でもじもじと足踏みをした。


「まだ~?」


 ぽちょん、と水面が返事をした。出るものが出たらしい。


 メニョは少し後ろを振り返り、じっと物思いにふけるように水面下を眺めてから、便座の上で方向転換した。前足で、便座をかしかしと撫でる。ネコなので、尻を紙で拭いたり温水洗浄をしたりはしない。便座の上に砂は無いが、砂を掛ける仕草をする。これだけはどうにも止めれらないらしい。まあ、便座が擦り減るわけでもないし、好きなだけ便座をこすればよろしい。


 が、それは私の膀胱圧が限界でないときの話だ。今は、それどころではない。


「めにょ、メニョ、めにょりーた。もう我慢できんよ。たしけて。」

「ぬうう」


排泄くらいゆっくりさせてくれ、と顔に書いてある。が、こちらとて余裕が無いのだ。人類としての尊厳を、飼いネコの目の前で失う訳にはいかない。


 私は内股で足踏みを続けたまま、トイレに入りこんだ。最早限界突破ゾーンに達しているので、片手は股間を押さえざるを得ない。こんな姿、誰に見せられようか。誰にも見せるあてはないが。


 私は狭いトイレの中でもがき、空いた片手でメニョをぐいぐいと押し遣った。メニョは不満そうに、それでもちゃんと大の方で水を流してからトイレを出て行った。


 よしきた、ほいきた。やっとこの時よ。私は大慌てで便座に腰を据えた。破裂寸前の膀胱がすぅぅと開放感に包まれる。ああ、良かった。人類としての尊厳は保たれた。多分、股間を押さえてもじもじ運動するのは、ヒトの尊厳を損ないはしない。ギリギリ。


 晴れやかに穏やかな心持で、私はトイレを出た。


「ふぅー…何という快さよ。」


私は下腹部の爽快感にしばし身をゆだね、トイレの前で陶然とした。その私の膝裏を、もふもふとしたメニョが撫でて歩く。


「にゃ」

「おお、メニョ。おはよう。トイレの後で手は洗ったか。」

「…」


メニョは水で濡れるのが嫌いだ。ネコだから当然である。が、トイレの後は手、というか前足を洗ってほしいものだ。


「何度も言ってるが、飯を作るんだから手は洗わなきゃ。」

「ぬー…」


メニョはじっと前足を眺めた。床の上をそれで歩いているのだからトイレの後で洗っても無駄ではないかという気はする。まあ、そうなんだが。気持ちの問題だ。


「今からご飯作るんだろ。私は二度寝するから、チャンと手を洗ってから炊事をするように。」


私はメニョに教え諭し、布団に向かった。まだ温かい。遠くには行っていないはずだ。私はぬるりと布団に入り込んだ。ああ、この幸せ。私は目を閉じて大きく息を吸い、むふーと甘露のため息をついた。


 その直後、私の幸せはもろくも崩れ去る。何と、冷たいしぶきが私の顔面に襲い掛かったのである。


「むぎゃっ!」


私はかッと目を見開いた。顔の上で、メニョが濡れた前足をぶるぶる振っていた。


「うにゃあ~ん」


手を洗いましたよ、と言いたげである。ネコは表情がヒトほど豊かではないが、こやつめ、今絶対にニヤニヤしていやがる。


「手を洗ったら、タオルで拭いてきなさい!」

「にゃ、にゃ」

「冷たく濡れた肉球で、私を撫でるんじゃない。さぶい、さぶい。」

「にゃ、にゃ」

「分かった、分かった。起きるよ、もー。」


私は二度寝を諦めて、布団からはいずり出た。


 メニョは濡れた肉球を雑巾で拭いて、その雑巾でベランダの手すりを拭いて、私が真心こめて温め続けた布団を干してしまった。メニョと暮らすようになってから、どうにも朝寝坊がしづらい。それどころか、これでは昼寝もできないではないか。健康的過ぎて、困ったものだ。もっとネコのように寝たいなあ。

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