第9話

 ワイシャツに薄手のコートだけでは朝晩は肌寒い今日この頃。皆さまは何を着ておいでだろうか。


 これ以降の寒い時期になると、私は毛皮が来たくなる。いや、なに、昨今動物愛護の観点から問題視されているミンクなぞの高級コートではない。そんなもの、ミンクがゴキブリ並みに大量発生して徹底的に駆除しなくては地球環境がたちどころに汚染されるという危機に陥りでもしなければ、私の手には届かない。


 話が逸れた。ミンクはどうでもいいんだ。見たことも無いし。私が欲しいのは、ネコの毛皮である。朝から晩まで、しっとりつやつやもふもふの高断熱素材を身にまとい、着替える必要がない。朝、パジャマを脱いで、冷え切ったワイシャツの袖に腕を通した瞬間に「ひえっ」などと叫ぶ必要も無い。


「いいなあ、毛皮。」


私は出社前に身の丈四尺の飼いネコであるメニョのおなかに顔を埋め、ふすふす匂いを嗅いで、両手でもふもふした。これさえあれば着替えなくていいのに。人類が毛皮を失ったのは、生物としての進化ではなく退化だと思う。


「うー」

「はいはい。遅刻しちゃうな。じゃ、行ってきます。」

「にゃ、にゃ」

「はいはい。タラちゃんね。帰りに買ってくるよ。」


 私はばたばたと我が家を後にした。


 かように、他ごとを考えながら、慌てて事に当たって、うまく行くはずがない。私は本日致命的なミスをしでかした。そう、メニョ弁当を玄関に置き忘れてきたのである。出社して、退屈な朝礼の最中に本日の弁当に思いを馳せようとして、気付いた。あまりの衝撃に、うっかりよろめき椅子にぶつかり、隣の同僚に不審がられた。


「どうしたんですか、沢田さん。顔色悪いですよ。朝ごはん食べてきましたか?」


それはぬかりない。今日は食パンに納豆ととろけるチーズが乗っかって、こんがり焼けていた。意外と合うんだな、これが。ただ、メニョは今一つ納豆のかき混ぜが足りなくて、いつもところどころ、こごっている。箸が上手く持てないから、どうにも混ぜにコシが入らないらしい。まあ、よく噛んで食べればいいだけのことだ。


 いやしかし、納豆トーストだけで、晩御飯まで持たせるなんて不可能だ。パソコンを立ち上げるも、ちっとも情報が頭に入らない。どうしたものか。


 思い余って、私は席を立った。ひと気の無い非常階段に行き、携帯で我が家に電話を架ける。メニョは日本語の発音が不明瞭であるため、基本的に電話には出ないが、起きていれば留守電に吹き込む私の声を聞いてくれるはずだ。ぴーという発信音の後、お名前を言わずに私はご用件を吹き込み始めた。


「おーい、メニョ。お弁当忘れてきちゃったよ。助けてー。」

「にゃう」

「わっ」


メニョが受話器を取ったらしい。不意に声が聞こえて、電話を掛けたのはこちらであるのに驚いてしまった。


「メニョ、弁当なしでは仕事ができなくてクビになって今晩のタラが買えない。昼に、駅まで持ってきてくれないかな。」

「にゃーい」


 メニョが了承してくれたので、私は少し心にゆとりができ、社会人らしい顔つきで席に戻った。バリバリと音高くファイルを開き、ガタガタと激しくデータを打ち込み、ワアワア賑やかに電話に応答する…という隣の同僚を応援して、黙して静かに心半分で仕事に打ち込んだ。もちろん、残りの半分はメニョ弁当である。


 昼の鐘が鳴ると同時に、私は席を立った。小走りで社を出て、徒歩5分くらいの道のりを1分で駆け抜ける。足が速いわけではない。よその敷地にお邪魔してショートカットすればそうなるのだ。サラリーマンたるもの、いざという時のために逃走経路を頭に叩き込んでおかなくては務まらない。


 私は電車に飛び乗って、自宅の最寄り駅で降りた。乗車時間は10分程度。問題は、我が賃貸古家の駅徒歩30分という立地である。これが故に、お弁当を取りに帰ることができない。しかし。


「にゃ」


駅を出たところのブロック塀の上に、リュックを背負った巨大なネコがいた。メニョである。私を見かけると、ひらりと身軽に飛び降りた。


「おお、メニョ。ありがとう!」


私はメニョの背中のリュックから、弁当箱を取り出した。ずっしり、重みがある。私の大好きなおかかごはんがいっぱい詰まっているに違いない。


「じゃ、食べに戻るよ。メニョも気を付けて帰れよ。」

「にゃー」


メニョはしっぽを一振りして、またブロック塀にジャンプした。身体はデカいが、動きはネコである。ブロック塀の上をすたすた躊躇なく歩いて、家の屋根を渡っていく。ああやってショートカットすると、我が賃貸古家は駅徒歩?20分に短縮されるらしい。


 こうして私は無事弁当とともに社に戻り、昼休み時間に食事にありつくことができた。


「沢田さん、今日の弁当は随分と…エントロピーが大ですね。」


隣の同僚がコーヒーをすすりながら、メニョ弁特別仕様を表する。ネコが背負って上下運動しながら運んだ弁当だもの、中身がしっかり混ぜ合わされているのは当然である。なに、三角食べとか、おかずとご飯を交互に食べるとか、そういった手間が無くて良いではないか。ピビンパだって、よく混ぜて食べるし。私はいつもよりちょっぴり急いで咀嚼して、メニョ弁を完食した。今日も美味しかった。やっぱり、メニョは最高だ。今日はメニョの分もタラを買って帰ろう。

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