第7話

 私の大嫌いな夏が少し影を潜めたような潜めていないような、朝晩に少しは涼しいようなやっぱり暑いような、気のせいかもしれない程度の秋がやってきた。最高気温が31度だもの、真夏より随分と涼しい。


 久しぶりの雨で更に暑さが和らいだ休日の昼下がり、私はごろごろとフローリングに我が身を横たえていた。畳や布団に比べて、冷やっこいのだ。この避暑方法は、身の丈4尺の飼いネコであるメニョの行動を観察することから得た知見である。ネコは暑い夏にはフローリングの上で液状化している。抱き上げようとしても、ずるずると両の腕から流れ落ちる。まかり間違っても、ふかふかお布団の上で丸くなったりはしない。


 開け放った窓から、すうっと冷やっこい風が入ってくる。築63年の我が賃貸古家は、風通しだけは抜群なのだ。いやはや、快適、快適。


 と、その時、かしょかしょとメニョの歩く爪音が聞こえてきた。ぬうん、と私の顔を見下ろして、くんくんと嗅ぎ(たぶん、加齢臭くさいと思い)、どふんと身を倒した。ネコらしくしなやかに身を横たえたと言いたいところだが、フローリングとの衝突音が響くくらいに一気に崩壊した。異変ではない。メニョはいつもこうである。痛くないのかと思うが、本ネコは平気の平左でぺろぺろ顔を洗っている。


 顔を洗うのは良いだろう。清潔一番。ダサい服装でも、寝ぐせが残っていても、清潔であれば最低限の礼節は保たれる。


 だが、何故、私の腹に密着してそれを行うのか。まだ冬ではない。私はTシャツ短パンだ。毛むくじゃらな37℃の特大抱き枕を腹に抱えてうっとりするには時期尚早だろう。


「メニョ子、暑い。離れてくれ。」

「うぬ」

「お前も暑いだろ。」

「うぬー」


暑くないらしい。メニョは暑いのも嫌いだが寒いのも嫌いだ。そして、どちらかと言えば暑さに強い。


 一般的に、暑い地域では動物は小型化し、寒い地域では大型化する。イエネコは小さいし、原産はアフリカだかアラビアという話だから、放熱に秀でていて暑さに強いのかもしれない。


 だが、メニョはでかい。ヒトの子ども並みにでかい。毛ももっふもふんだ。もっと、暑さに敏感でも良いのではないか。


「暑いよう。離れてくれー。」

「うぬー」

「ほら、撫でてやるから。」


私の腹に密着して背を丸めているメニョを、私はなでなでした。ごろごろと盛大な音が鳴る。音響装置が大きいので、ごろごろ音も良く響くのである。


 頭をなでなで、おなかをもふもふもにもに、背中をさすさす。触り心地は抜群。私の全身、汗まみれ。撫でさすってもなかなかメニョが満足しないので、私は疲れてメニョの頭に我が顔を埋めた。好い香り。メニョ耳に私の髪の毛先が当たって、ピンピンぴくぴく動いては私をはたく。気にしない、気にしない。


「メニョ、のど渇いた。」


 私はメニョをぎゅうと抱きしめて催促した。ゴロゴロ音が、すうぅと消えていく。


 メニョは私の抱擁からぬるりと抜け出すと、四本足で立ち上がった。どんなに強く抱きしめていても、ネコはいつの間にかするっと出て行ってしまう。やはり、ネコは液体だと思う。


「冷たくて、さっぱりするやつ頼むー。」


 私は怠惰に寝ころんだまま、メニョにオーダーした。そう思って飲むと甘さが分かるレベルの、極限まで薄めたカルピスなんて、良いな。氷を浮かべて。あるいは、まだ陽が高いけど、キンキンに冷えたハイボール缶をうっかり開けちゃっても良い。めんどくさければ、冷蔵庫から出しただけの麦茶でも良いんだが。


 あれやこれやと冷たい飲み物について空想の翼を広げていた私の耳に、チンという音が届いた。あれは、電子レンジの音。なんと。電子レンジには、何かを冷やす機能はない。あいつときたら、気が利かないことに、温めるだけの一方通行だ。その電子レンジが作用しただと?


 私は胸騒ぎがして、むくりと上体を起こした。二本足で立ったメニョが、鍋つかみをはめた両前足に湯飲みを挟んで持ってきた。ほかほか、湯気が立ち上っているのが見える。ことり、と湯飲みを食卓において、メニョは私を振り返った。


「にゃーい」


はいどうぞ、と言っている。


 私はやむなく、食卓に近付いた。つぶつぶの混じった、甘い香りの白くてどろっとした液体。ガッデム。冷蔵庫で冷やしておいた、一ノ蔵の冷やし甘酒がホッカホカになっている。あまりの衝撃に、言葉を失って机に突っ伏してしまう。熱々の甘酒は、半袖短パンのいでたちで臨むものではない。


「にゃー」


メニョが催促するので、私は椅子に座った。熱い湯のみを両手で抱え、ずっ、ずずぅ、とホット甘酒を啜る。熱い。暑い。濃い。甘い。過剰においしくて、涙が出そうだ。


 汗をかきかき、私は甘酒を飲み終えた。美味しいことは美味しい。でも、胃の腑から熱が昇ってくるようだ。窓から流れてくる風ごときでは、この私の身体のほてりを冷ますことはできないのよ。


「メニョ、ごち。湯飲みは洗っとくよ。」

「ぬー」


メニョは満足げにしっぽを振ると、風通しの一番良い場所に歩いて行き、どふんと倒れ伏した。丸くならずに、だらりと伸びている。やっぱり、暑いんじゃん。


 私は流しで湯飲みを洗い、ついでに、冷蔵庫からそっと冷たい麦茶を出した。洗った湯飲みに注いで、一気に飲み干す。くはー、これこれ。夏の麦茶の一気飲みは、何物にも代えがたい。ホット甘酒では、喉の渇きは癒されないのだ。


 ちらっと横目で見ると、メニョはうとうとまどろんでいるようだ。私はもう一度湯飲みを洗ってから、そっとメニョに近寄った。さっきメニョが私にしたように、メニョの脇にごろりと寝そべってくっついてみる。


「ぬうう」


顔を微かに上げて、メニョが唸る。さも迷惑そうな顔だ。しっぽも抗議するようにバフバフしている。


 何だか理不尽だ。ちぇっ。私はメニョの腹をひとしきりもふもふしてから、少し離れた場所にごろりした。そのうちに、メニョの寝息が聞こえてくる。まあ、お互い、夏はこれくらいの距離感でないとね。

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