第57話 化石

 まわりがぱっと明るくなる。

 昼間の青い光の下だ。

 そこを、天から逆さに落ちて行く!

 天の上で、天のお妃様が、よくやった、というように穏やかにほほえんだのを見たと思った。

 安心しているひまはない。

 目の下の黒い細かい模様にしか見えなかった街が、ぐんぐん近づいて広がってくる。

 落ちる!

 アンは落ちてもいい。でも、いまアンはほかの人を抱いているんだ!

 アンは、女の人を強く抱き、翼にこめられるかぎりいっぱいの力をこめた。

 ばさばさばさっ、と、耳障みみざわりな音が響く。

 間に合った。でもほんとうにぎりぎりだった。

 アンは海の波をかすめる直前でやっと体を立て直した。力を抜くと落ちる。少しでも落ちると海に落ちるので、つづけて羽ばたいて勢いをつける。勢いに乗ったところで、やっと思い切って翼を大きく拡げた。

 海の上低くを、街に向かって飛ぶ。

 海の上にはかすかに風があって、アンは無理に羽ばたかなくても飛び続けることができた。

 もうだいじょうぶですよ、と、抱いていた女の人に声をかけようとする。

 軽い!

 アンは、その手に抱いているものを目のまえに持って来て、何も考えられなくなった。

 抱いていたのは女の人ではなかった。

 暗いお星さまでもなかった。

 それは砕かれた石のかたまりのようなものだった。その石には、唇のゆがんだ、醜い黒い鳥の姿がはめ込まれたようになっていた。

 ヴィクターさんにきいた化石というのがこれなのかも知れない。

 ああ、と思った。お星さまを取ってくると言って、取ってきたのが化石というのでは。

 でも、しかたがないと、アンは思い直した。

 この人にとっては、アンが久しぶりに会った人間なのだ。

 しかも、自分を抱いてくれたのは、アンが久しぶりだったのだ。

 ことによると、もっとたくさんの人を抱いたのかも知れない。娼婦しょうふだったというのだから。

 その、川に落ちて死ぬ直前に会っていた男も、抱いただろう。

 でも、それでは、アンが抱いたときのような暖かさは感じなかったのだろう。

 だから、しかたがない。

 この化石はあの女の人を封じこめている。この化石は化石でだいじにして、自分は鍵の乙女の務めとして、あの大釜おおがまをかき混ぜて一生を過ごそう。

 その一生が、何千年続くか、わからないけれど。

 だったら、もう悲しまないことだ。

 海岸が見えてきた。穏やかに波が打ち寄せている。

 さっきの青い光騒動でこのあたりは無事だったのだろうか。

 海岸に出ている人たちが見える。

 あっ、と思う。

 そのまんなかにいて、飛び跳ねて手を振っている。その小さい女の子が、さっきアンにつかまったイーダだ。後ろにエルクリナもいたし、照れくさそうにしゃに構えて、イカロスもファイトンもいる。

 大人たちは見分けがつきにくかった。たぶんあの麦打ち場で麦を打っていた人もいっしょだろう。見えたのは一瞬だけだったけれど、キロンさんもフォルスさんもいるのがわかった。

 その上を飛びすぎる。

 飛ぶと一瞬だ。ここからは陸地を上らなければいけないので、羽を、軽く羽ばたかせつづけながら飛んで行く。

 せっかくなので、さっき歩いた通りの上を飛ぶ。自分が最初に姿を見せた四つ辻の上も飛んだ。さっきは大きくなった豚が慌てていたが、もう落ちついたようだ。街の人たちは不安そうにしていたが、アンを見つけると嬉しそうに手を振ってくれる人もいた。

 フローラの家もすぐ上を通り過ぎた。テューレ婆さんがどうしているかはわからない。エルピスのパン屋さんも飛び越した。

 そこからは一本道をたどる。おかみさんたちが話していた角、おじさんが出てきてついてきたところ、海へと下りる道と飛びすぎる。

 大釜おおがまの御殿はもう見えている。城壁の前にかたまったまだら模様が見える。これが、さっき、アンに従って御殿にやって来た人たちだろう。

 ずっとここにいてくれたのだ。

 手を振ってあいさつしたいけれど、化石を抱いているからできない。

 アンは、せめて、と思って、いちど大きく羽ばたいて高い空へと昇った。そこから円を描いて下りてくる。

 下の人たちはアンを見上げて手を振ってくれた。

 アンが入ったあの小さな門の前、門にいちばん近いところに、フローラとエルピスがいるのが見えた。フローラは屈託くったくなく笑い、口に手を当てて何か叫んでいた。

 飛んでいるアンにはことばはわからない。フローラのすぐ上を飛び抜け、そこからの上り坂を羽ばたいて高さを稼いだ。

 こんどは、あの御殿の上に鍵の乙女たちと大釜おおがまの魔女がいて、やっぱり手を振ってくれている。

 成功したと思ってくれているのだろうな、と思ったら、あまり明るい顔もできないけれど、泣くわけにも行かない。

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