第56話 思い出

 アンのほうから、きいてみる。

 「でも、あなたは、どうやってここに来たんですか?」

 だいぶ歳が上のようだが、この人だって鍵の乙女だったのかも知れない。

 「何を言っているのでしょう?」

 女の人は、しかたがない、というように言い返した。

 「人がここに来る。それは、死んだからに決まっているではないですか」

 「はあ」

 アンは、少なくとも死んでここに来たという覚えはないのだが。

 でも、ここでこうしているのを、生きている、というのかどうかも、もうよくわからない。

 「でも、そんなことをきいてくれるひとなんて、ずっといなかった。だから、話しちゃおうかしら」

 今度は、いたずらっぽく笑う。それで、アンは救われたように思った。

 女の人は話す。

 「わたしがそうやってだました人が、何人になるか。百人か、千人か。もうわからなくなったころ、ほんと、さえない男がわたしに引っかかったんですよ。それはもう、どうしてこんなのに声をかけてしまったんだろう、っていうくらい、さえない、情けない男。見たところも情けないし、みょうに格式張かくしきばったかっこうをしようとしているところもさらに情けなく見えるし、言うことやること、すべて自信なさそうで。そして、こっちはお酒を飲ませて、法外なぜにを払わせて、それでやつは帰ったんです。そして、気がつくと、わたしのところに、財布を残してました」

 女の人は一つ息をついた。

 生きていたときには、ここで一つ煙草でもはたいたところだろう。

 「その重い財布にね、やつは、そうねえ、五年くらい、いや、つましく暮らせば十年くらい暮らせるだけのカネを入れていたんです。それで、どうしたんでしょうねぇ? それをわたしがそのまま横取りしてしまえば、わたしは街娼がいしょうなんて商売はやめられる。どこか遠い街に行って、小さなお店を買って、そこでほんとうに結婚して、わたしなんかとでも結婚してくれる心のひろい男の人に会えれば、もうだましたりしないで結婚して、子どもを育てて。それだけのことができたはずなんです。そうしていればよかった。でもねぇ、ほんとうに、どうしたんでしょうねぇ? わたし、それを返さなきゃ、って思って、この服で、酔っ払ってもつれる足で、できるかぎり走ってそいつを追いかけた。やつも酔ってて足が遅かったのか、それとも、気がついて戻って来たところだったのか、大きい川に架かる橋の上で、わたし、やつに追いつきましたよ」

 「ああ」

 よかった、とアンは思う。女の人は目を細めて話を続けた。

 「ところが、酔いが回ってたんでしょうねぇ。いや、だれかわたしより悪いやつがわたしをつけてて、その財布を狙ってたのか? もしかすると、その気弱そうな男というのが、わざとカネを忘れてわたしを悪者にしてもっともうけようとしたのかも知れませんね。ともかく、わたし、突き落とされたのか、自分で落ちたのかわからないけど、橋から川に落ちてしまったんですよ。それで、酔っ払ってるでしょう? 川の水は冷たいでしょう? すぐ息が切れてしまって。ああ、せっかく生まれて初めていいことをしようとしたところだったのに、人のためを考えて懸命けんめいに走ったところだったのに、ってね。そう思ったときには、もう、ここにこうして」

 女の人は、涙をその細い目に溜めていただろうか。

 あわれだ。

 でも、人のために何かしようとして、中途で力尽きたというのならば、それは、この人だけのことではない。

 なんだ、と思った。

 アンは、同じように目を閉じて、そこに涙が湧いてくるのを自分で確かめる。

 ふいに、その手が動いた。

 何も言わなかった。両方の腕で、その人の胸を抱きしめる。

 「ああっ! いったい、何をなさるの?」

 女の人は慌てた。その女の人を抱く腕に力を入れる。

 胸と胸を合わせ、その人の胸を自分の胸に押しつけ、相手の顔がはっきり見えないほど顔を近づけ、あごを軽く合わせ、ほほをさする。

 その安手やすで白粉おしろいと安っぽい香水のにおいを胸に吸いこむ。

 相手はますます慌てた。

 「何をなさるの? 何をなさるの? ええ。ねえ! いったい、いったい、何をなさるのよっ!」

 アンは答えない。答えようにも声が出ない。かわりに、あごの下にその人の肩をとらえ、解けかけている髪のにおいをぐ。

 何をなさるの、と言うわりには、女の人は少しも逃げようとしない。

 ほんとうに逃げられないのか、それとも、そういう言いかたでアンをだましているのか?

 だますのは得意だろう。性格のよくない男たちをだましていたというのだから、アンをだますくらいわけはないはずだ。

 でも、べつにこの人がだましているつもりでもいいと思った。

 アンの閉じた目から絞り出された涙が、アンの頬とあごを伝って、その人の首筋をらした。

 女の人は慌てた。

 「ああっ! あったかい、あったかい!」

 慌てたけれど、アンから逃れようとはしない。

 「ああ、ああ! こんなの、ほんと久しぶり。ずっと忘れてた。こんな、こんなに、ああ!」

 言うと同時に、女の人は、自分のほうからもアンに劣らず強く抱きついてきた。

 「ああっ、ああっ!」

 声にもならない声を上げながら、アンの背に手を回す。

 そこには翼があったはず、とふとアンが思ったとたんに、アンのまわりに風がよみがえった。

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