第55話 街娼

 アンは暗がりに横たわっていた。

 闇というには、そこはまっ暗ではなく、薄明るかった。しかし何の明かりが見えるわけでもない。

 ここは、あの海の底なのだろうか?

 手を後ろに当ててさぐってみると、まだ翼はついているようだった。でも、翼を動かすことはできなかった。

 どうやって翼を動かせていたか、それもきれいに忘れている。

 アンは小さく息をついた。

 あのお妃様の言ったとおりだ。明日はお屋敷を追い出される。

 その先、自分がどう生きるか?

 なんとなく、これまでと同じように生きられると思っていた。でも、そんなことはないのだ。

 ベリーズベリーの街の、ファークラッド家が持っている家に移り、そこにお嬢様とお姉ちゃんと三人で住むことになっている。だが、二十歳にもならない女の子三人で、果たしてそこで暮らしていけるものだろうか?

 それに、あの意地悪な「叔父」という人たちが、ファークラッド家のものも自分たちの財産だと言い張って、あの家を取り上げてしまったら?

 自分さえ救えない。

 自分にいちばん近いお姉ちゃんやお嬢様さえ救えない。

 それが、どうしてこの下の世界を救えるなんて思ってしまったのだろう?

 アンはどうなるのだろう?

 あのウィンターローズ荘に帰れるのだろうか?

 それとも、この薄暗がりのなかに閉じこめられたまま?

 それもいいのかな、と思ったとき、ふと翼が少しだけ動いたように思った。

 それで顔を上げる。

 アンの向かいに、だれかがいた。

 眠っているようだ。目を閉じている。そして、軽い穏やかな笑いを口もとに浮かべている。

 女の人だ。

 髪は頭の上に上げて結っている。服もひだのついたきれいな白い服に見える。立派な衣裳だ。

 でもお嬢様が着ていらっしゃるような服とは違っていた。

 薄汚れ、毛羽けば立ち、細かい破れも見えた。

 顔も白く美しいようだが、この薄暗いなかでも、よく見ると白粉おしろいなんかで念入りに塗った白さのようだ。

 「あなたは、どなたですか?」

 アンは、できるだけ声を弱く出すようにして、その人に語りかけた。

 その人は目を開いた。

 「ああ、あなたは」

 言って、その人はアンの体を、上から下まで見回した。

 羽がついているのはなぜ、などと言われたら、どうしようかと思う。

 「ああ、ほんとうに高いご身分の人のようですね」

 「ああ、いいえ」

 アンは答える。

 「わたしは使用人で、それも、明日には勤め先を追い出される使用人の娘です」

 「それはお気の毒」

 言っても、相手の女の人はまだ笑っている。

 ばかにされているのでもないようだが、ほんとうに気の毒と思ってもらえているようでもない。

 「そうねぇ。でも、わたしよりはずっとまし」

 そう言って、目を逸らしかけ、その前にまぶたを閉じる。

 だから、アンはまた呼びかけた。

 「あなたは、どなたですか?」

 女の人は、ふっと長く息をつく。

 「街娼がいしょう、というものですよ」

 街娼とは何だろう、と思い、街の娼婦か、と気づいて、どきっ、とする。

 それに女は気づいたのだろう。さっきより品を崩して、ふふっと笑う。

 アンを責めるだろうか。ばかにするだろうか。

 「それもたちの悪い街娼でねぇ」

 でも、女の人は、思いのほかかわいらしい声で、語り始めた。

 「毎日、男をだまして暮らしていましたよ。わたしをだましたつもりで、とっても満足して見栄みえを張って帰って行った男が、実は自分のほうがだまされていたと気づいたときに、どんなに悔しがることか。ほんとうに思い詰めてわたしが好きだと言った男、わたしにだまされたと言って怒鳴どなり込んできた男、それを、心からばかにした態度で突き放してやると、あいつら、泣いたり、わめいたり、情けなさをぜんぶさらけ出すんですよ。それがおもしろくて、おかしくて」

 「はあ」

 どう答えていいか、わからない。

 少なくとも、はじめて会った相手に言うことではないと思う。

 「あら」

 相手の女の人は、意外そうに言った。

 「あなたは軽蔑なさったり、怒ったりはなさらないんですねぇ?」

 れ馴れしい言いかただった。

 いや、もっとひどい人たちを知っていますから、とは答えなかった。かわりに、

「いえ。そんな、軽蔑したり怒ったりするほど、あなたのことをまだよく知りませんから」

と言う。女の人はそれをきいて、アンの首のあたりに手を伸ばそうとして、急いで手を引っこめた。

 小さく首を振る。

 「わたしにあなたに触れる資格なんて、ないですわね?」

 「人が人に触れるのに、資格とか、そういうのはないと思いますけど?」

 あまり考えもしないで言い返してしまった。「売りことばに買いことば」というのが、お姉ちゃんみたいだ。

 女の人はまた寂しそうにふっと笑う。

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