彼女、九月、帰り道

名無与喜

プロローグ

 かいがいしく守ってくれていた邪魔くさい長い前髪が、いとも簡単に、僕から離れていった。ここまで育てるのに、あれだけ時間をかけたのに、名残惜しい。ソファーで待っていた姫岡に近づくと、不安と緊張が絶頂に達する。髪で隠れていた頬や耳、おでこがよく見えるようになって印象が大きく変わった。姫岡は「すごく似合うじゃない」


 開口一番の一言に救われた。手にしていた雑誌から、僕に視線を向ける。今だけだ。姫岡の世界には僕しか映っていない。そう思うと余計に、緊張した。


「そ、そうか?」


 柔らかい指だった。姫岡は僕の頭をぽんぽん叩いてから、髪に触れる。1時間くらい前まで、アホ毛があちこちに向かっていた無造作な髪だった。それがプロの手に掛かれば、綺麗に整えられて、僕自身が驚くらい別人のようになっている。


「まつ毛長いんだね。髪で隠れていたから気づかなかったよ」


「え、まつ毛? 普通じゃないかな」


「こうやって新しい自分、本当の自分を曝け出していかないと」


「そ、そうかもしれんね」


 姫岡の微笑みは強烈だった。今でも鮮明に思い出すことができる。たくさんの光を吸収した大きな瞳がまつ毛に隠れて、頬が一段と踊る。その柔和な表情は、誰に対しても、平等に振舞うのは、姫岡の長所だ。僕のようにクラスで浮いているどころか、影の薄いミジンコのような存在にまで、陽気に接してくれる。誰にでも優しい。優し過ぎるくらいだ。屈託のない微笑みに、自然と人が集まっていく。


 休日を僕と過ごしたのは、ちょっとした息抜きだと言っていた。納得するしかなかった。僕と関わるメリットなんてない。


「次は服ね。ちょっと歩けば大きなショッピングモールがあるから行こう」


 季節は秋だった。9月とは言え、まだ昼間は暑い。姫岡は黄土色のワイドパンツに、白のゆったりとしたTシャツを着ている。袖から伸びる細い色白の腕が、眩しく思えた。


 姫岡は振り返った。一瞬の横顔と微笑み。


「あそこお店を見よ」


 僕は言われるがままに姫岡の後を追う。それから自然と隣に立っていた。姫岡のセレクトと、僕の好みが対峙する。序盤は拮坑が予想されたが、姫岡に軍配が上がった。買うのは僕だし、着るものくらい選ばせて欲しいが、「地味」「ダサい」「似合ってない」と姫岡が言うなら、そうなのだろう。


「うんうん。今日だけで随分と印象変わったよね」


「人間って髪型や服装で随分と変わる……」


 ショーウィンドウの鏡に反射する姿を見て、僕は驚いていた。


「顔はそんなに悪くないからね。あとはボソボソと話す癖と、姿勢だね」と姫岡は僕の背中を叩いた。


「痛った! 何するんだ」


「叩くと大きな声を出るんだね。おもちゃみたいね」


 誰でも突然叩かれた驚くだろう。


「おもちゃみたいは酷いな。そう言う思考がイジメを生むんだな」


「はは、ごめんね。言えるようになってきたね」


「言わされている」


「ところでさ。好きな人って誰なの?」


 姫岡の口から漏れた問いに、僕の思考がフリーズした。発端は「好きな人がいる」みたいな話になって、それで買い物に付き合わせたんだ。「自信がないなら、変わればいい。変わる努力はした?」と姫岡に言われて、僕はノーと答えた。すると、姫岡は休日の予定をわざわざ空けてくれたのだ。凄い緊張した1日だった。一番真っ当な格好はなんだろうかと、クローゼットと睨めっこしても、答えは見出せない。物凄い嫌な顔をされたけど、妹に服を選んでもらった。それでも不自然な気がしてならなかったが、仕方ない。


 待ち合わせは、最寄りの高架駅だった。町を見渡せる駅のホームから、姫岡を待つ。普段なら全く感傷に浸らない風景が、妙に平常心を保つのに役立った。


「ヤッホー! 待った」


 姫岡は微笑んだ。私服の自分を見て、不快な顔をすると思っていたが、そんな懸念は不要だった。誰の視線を気にしていたのだろう。霜が一気に晴れた。


 話を戻すが、話の発端になった僕の好きな人とは、「一体誰のことなの」と姫岡は僕の顔を覗き込むような姿勢になって、前屈みになった。僕の視線が一瞬だけだけど、胸元に移動する。姫岡は頬を朱色に染めて、手で隠した。


「ごめん」


 沈黙に耐えられなくなって、僕は謝罪した。姫岡はなんでもないように、話を戻す。


「それで、好きな人って誰なの?」


「好きかはわからないよ」


「なるほど。自分の気持ちがまだわからないってことね」


「そうなるかもね」


「気になるなー。君のタイプの子がどんな人なのか。よく話す人?」


「よく話すと言えば、よく話すよ。僕とは違うね」


「君は全然話さないからね。今日も私がずっと話してるような気がするよ。他にタイプはないの? 見た目とか」


 姫岡がいきいきし始めたのは気のせいだろうか。


「見た目は……そうだな……華やか」


「華やか!!」


「いつも笑顔で、眩しい。誰からも好かれる才能を持っている」


「何それ、どんな人よ! そんな人いないでしょう」


 姫岡は高笑した。先刻から僕が話しているのは、姫岡のことなんだけど、本人が否定するとは想定外だ。


「それがいるんだよ。僕から見たら、その人は手の届かない、遠い人って感じがするんだ」


「余計意味わからない。だけど少しでも届きたくて努力してるんだ。この一歩は大きいよ。時間って平等じゃないもの。今を全力で生きなくちゃ」


 姫岡は僕の手を取って走り出した。突然の行動に心臓が飛び跳ねそう。


「ねぇ、あそこのお店のクレープ食べよう!! 前から気になってたんだけど、ここにあったんだ」


 クレープは美味しかった。バナナとチョコとか、イチゴとチョコとかサイズもたくさんあった。生地がサクサクしていて、味に奥行きある。そんなクレープだった。


 あれから10年が経過した。久しぶりにそのクレープ屋に行ってみたことがある。駅前ターミナル付近の隅にあった。どうやら、何年も前に閉店していたようで、理不尽な時間経過を痛感した。閑散とした駅前で、僕は姫岡のことを思い出す。


 生前の彼女は言っていた。「時間が平等なんて嘘、与えられた時間は人によって違うもの」まだ十代で、死とは遠い存在だった僕には、姫岡の言葉の意味がわからなかった。今を全力で生きことの意味がわかっていなかった。時間が限られていることも、いつまでも若いなんてこともない。それなのに僕は、姫岡の影を追って、過去を彷徨い続けていた。

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