第8話
本を読んでいたら、いつの間にか眠ってしまった。仕事終わりの平日にはよくあることだ。だいたい床で死んだように、眠る。こう言う睡眠は質が悪いので、ベッドで寝るようにしたいのだが、なかなか上手くはいかない。そもそも寮にベッドなんてなかったりする。まあ、わざわざベッドを購入して、寮に置く人はいないだろう。僕のように、期限があるなら尚更だ。
時刻は6時半だ。今週中には退寮をする予定だったので荷造りは終わっている。早朝からすることはなかった。朝食も食べる気がしない。寝よう。僕は再び寝ることにした。浅い眠りが心地良い。次第に深い睡魔に堕ちた。
約束の時間まで余裕があったので、先にカフェに入ってコーヒーを飲むことにした。昨晩はどこまで読んだだろうか。ページを捲っていく。今日は村瀬美織と会う予定だ。村瀬とは学校を卒業してからは一度も会っていない。学生時代の彼女は大らかでよく話すタイプだった。ただ自己主張が強く、噂にも敏感で、僕は苦手意識を持っていたことも確かだ。一方的に話を聞かされるようなことが度々あって、興味のない話を延々と聞かされるのは、苦痛でしかなかった。彼女のようなタイプは相手がどうこうよりも、自分が楽しければいいんだろうか。僕にはよくわからない。
頼んでいたコーヒーが、テーブルに置かれる。僕はカップを持たずに、黒い水を観察した。苦そうだ。何だか緊張する。落ち着かないと、普段気にならないことが、特別な何かに感じてしまう。僕の悪い癖だ。
「やたら早いな」
天音はベージュのパンツに白のシャツと、普段よりもラフな格好だった。僕の隣に座った天音は、カフェオレを注文した。
「なんだか普段着って感じだな」
「ほほう。察しがいいな。気分転換だよ。それに相手は専業主婦だ。お堅い雰囲気はできるだけ削りたいんだ。あくまでもかつての友人として、リラックス」
「そう言う気遣いもできるんだな」
「私はこう見えて世渡りは上手いほうだ」
「そうなのか? 思っていることをズバズバ言い過ぎて、嫌がれそうだ」と僕は素直な意見を述べる。
「少なからず君よりは、人とやっていけている」
「否定はしない」
村瀬美織は結婚して、名字が変わっているそうだ。今の名前はなんて言ったか。忘れてしまった。僕らの前に座った村瀬は、学生時代よりもずっと大人びて見える。結婚して、母になると雰囲気も変わるのかも知れない。母は強い。「二人はどう言う関係なの?」と開口一番に聞いてきた。ごもっともな疑問である。天音は何でもない様子で「どうも何も、彼は私の助手だよ。最近仕事辞めたらしくてな。私の元でバイトをしている」
事実ではあるが、少しは情報を省いて欲しいな。僕の矜恃についてだ。余計な情報を与えないで欲しい。いらん情報を得た村瀬は「へぇー」と冷たい視線を僕に送る。
「君は結婚したみたいだな」
「三年前にね。勤務先の先輩とデキ婚。当時は困惑したけど、今は結婚して良かったと思ってるわ」
「それはめでたいことだ」
「咲のことを聞いて回ってるって聞いたけど、何を知りたいの?」
「君が知る姫岡咲のことが知りたい。私達は姫岡の死に疑問を抱いている。なぜ彼女は死んだのか。本当に事故なのか。かつてのクラスメイトの話を集約すれば、真実が見えてくると思っているんだ。だから君が当時、姫岡咲をどう思っていたのか、印象的なエピソードがあったら話してほしい」
「事故死でしょ。今さら蒸し返しても何も変わらないと、思うけど……」と村瀬は言葉を濁した。何か口にできないことがあるのかも知れない。
「大丈夫だ。ここで話したことは絶対に口外はしないことを約束する」
天音の言葉を待っていたかのように、村瀬は重い唇をゆったりと動かした。
「実はここに来るのは少しだけ嫌だったの。白状すると私には話したくない過去がある。だけどあなた達が真相を探っていると聞いてね。小説も事実とは違うと思うから。私と咲の間であった本当のことを知って欲しい」と一呼吸を置いて、「高2の時にタバコ事件があったじゃない。あの事件で素行の悪い生徒が、一斉に退学することになって。あの事件に私と咲は、少しだけ絡んでいて」
「密告者のことか」
「それ、私なのよ」
素行の悪い生徒たちの中には、コンビニの裏でタバコを吸っているグループがいた。そのことを密告した正義感の強い生徒がいる。そんな噂があった。ほとぼりが冷めると、噂と一緒に真実もうやむやになった。あの渦中の中心人物が村瀬だったらしい。僕は少しだけ、動揺していた。
「クラスの雰囲気を悪くする嫌な奴らだなって思ってたし、咲を虐めていた奴らだったから、タバコを吸ってることを先生に言ったんだけど、まさかあんな大事になるなんて」
「どうやって報告したんだ? 電話したのか」
「そう。現行犯で先生に見つからないと意味がないから、コンビニの裏で吸ってることを確認してから電話した」
「それでその事件が姫岡と、どう関係あるんだ」
「不良グループの奴ら退学が決まった後に、密告した人を探し出したの。あいつらが素行の悪さがかなり目立って奴らだから、何をするかわからなかったから、私……怖くて。そのことを私が咲に話したの。そしたら、咲……私を庇って」
「姫岡は自分が密告したと情報を流したのか?」
「そう。だけど、あられが不良グループのリーダーとその頃は付き合ってたから、なんとか丸く収まったから良かった。問題は三年生になった後、またあいつらが学校に来るようになったの。憶測だけど咲はあいつらに何かされたんじゃないかって、ずっと思ってて」
村瀬は声量を失った。目の前に座ってる天音にも聞き取りが難しい小さな声だった。彼女は僕を見た。求められるような視線だが、あいにく僕にも聞こえない。当時のことを思い出したのだろう。村瀬は俯いて鼻を啜った。その様子を見た天音は立ち上がって、村瀬の隣の席に座った。
「ずっと悩んでいたんだな。よく頑張った」
「あ、ありがとう。大丈夫だから」と目を充血させて村瀬は言った。
「疑問があるんだけど。どうして一年も経ってから不良グループが姫岡に嫌がらせをしたと思ったんだ」と聞いたのは、僕だった。言ってから空気を読めてないと、思った。だけど、そんなことは小さなことで、姫岡の真実を調べることが何よりも大事なことだ、と自身を正当化した。
天音は怪訝そうに僕を見ていた。村瀬はキョトンした顔をしたが、表情を引き締めてから、「咲に良くない噂があったのは、覚えてる?」
『姫岡』『いじめ』『リストカット』『不登校』などのワードが頭を過ぎった。けど、違うような気がした。
「三年生になった頃に、咲が売春してるって噂が広まったの。おっさんと歩いてるを見かけたって。私はそんな根も葉もない話は信じなかった。咲も気にしないとは言ってたんだけど、私は誰が噂を流したのか調べたの。そしたら学校の裏掲示板が情報源だった」
「裏掲示板……」
僕は言葉を閉ざした。学校の裏掲示板は学生時代にも聞いたことがあったが、存在なんてしないと思っていたからだ。裏掲示板は、匿名性があるが故に、スクールカーストを崩壊させて、誰もが平等に意見を述べることができる。当時は全く興味を持てなかった。そんなものはあるからなんだと、蔑んでいたくらいだ。けど認識を改めなくてはならない。
「君は裏掲示板に誤った情報を流したのは、退学した不良グループだと思うのか」
「そうじゃないの? あいつら以外に咲を悪く言う奴らなんて思い当たらない」
村瀬の意見には僕も賛同した。姫岡が誰かに憎まれていたなんて、想像することも困難である。誰にでも屈托のない笑顔を向けていた姫岡を思い出した。あの笑顔を嫌うものがいるのだろうか。
「その掲示板は今でも閲覧はできるのか?」
「どうだろう。さすがにできないかも知れないけど、熊谷明里って子は覚えてる? 噂ではあの子が裏掲示板を立ち上げたみたいよ」
熊谷明里と言えば小説にも登場する人物で、来週に話を聞かせてもらうことになっている。小説の中の熊谷は、出番は少なく裏掲示板の話も殆ど描かれてない。姫岡の友人の一人として登場するくらいだ。現実では学校の風紀を乱す裏掲示板の管理人だったのか?
「裏掲示板で不良グループに脅された姫岡は学校終わりに、いつもと違う道から帰った。そして、何かトラブルがあって、事故にあった。これが村瀬の意見か?」と天音は低い声で言った。
「あの日の私は間違っていた。強引にも咲と帰るべきだった。一緒に帰ろうと待ってたんだだけど、いつまで経っても咲が降りてこなかった。先に帰ったと思ったけど、バスにも咲はいなかった。私があの日、咲を探していればと思うと……」
村瀬は涙ぐんだ。溜まっていた想いを吐き出すようだった。
●
天音が郊外にあるカフェに行きたいと言うので、15分ほど車を走らせた。田んぼに囲まれるなかで、一際異彩を放つ黒い建物が見えてきた。天音の指示で敷地内に駐車する。モノリスみたいなこの建物は、ネットで話題になっているカフェらしい。入り口が二つあって、右がカフェゾーンで、左がテイクアウト用だそうだ。
右側から店内に入ると、僕はコーヒーを頼み、天音はコーヒーとケーキを頼んだ。さっきもケーキを食べていたような気がする。
「またケーキを食べるのか?」
「そうだが」なにか問題でも、と言いたげな顔であった。「毎日、トレーニングをルーティンにしているこの私が、まさかカロリー計算をしていなと思っているのか。馬鹿にするなよ」
「すいません」と僕は即座に謝罪した。内心では、本当にストイックにトレーニングをしているなら、お菓子なんて食べないだろう、と思った。
「体型をキープするためのトレーニングだから問題ないんだ」
「僕の心が読んでいるのか」
「まさか。何か言いたげな顔をしているからだ」
「僕はそんなに顔に出やすいだろうか」
「まだ何か言いたいことがあるんじゃないか?」
天音は鋭い。高校の時も彼女に見透かされたことがあった。あの時の僕は全てを失ったと思った。大切なものを失い、目の前が真っ暗になったのだ。
「君にはいつも見透かされるな。そうだよ。僕は村瀬の話を聞いて違和感を覚えている」
天音は頬を緩くしながら「ほほう。何が面白くないんだ。話してみろ」
「姫岡が売春していたなんて話は本当なのだろうかと。裏掲示板もそうだけど、高校生の頃にそんな噂は本当にあったのか? 少なからず僕は知らない」
「そう言う噂は確かにあったが不確定な要素が強かったのも事実。私のクラスまでは噂は流れたが、戯言であると判断された」
天音は進学クラスで校舎も違ったので、噂の伝播の流れは違う。それでも姫岡は学校で認知が高い人だったと思う。なんせ容姿がずば抜けて良かったから、男なら必ず気になるからだ。それだけは断言できる。すれ違い様に振り返る男を何人見たことか。
「だが、誰かの虚言だとしても、噂が広まってしまったことは当人にとっては大きな問題だろう。姫岡が自殺をする理由にはなるんじゃないか?」
「お前。それ本気で言ってるのか。姫岡がそんなことで自ら命を断つなんて僕には信じられない」
「君は姫岡咲という人間の何を知っているんだ?」
僕は言葉を濁した。この状況で最も適した言葉はなんだろうか。
「僕は姫岡の友人だよ」
過去のことが頭を過ぎった。思い出がフラッシュバックされては消えていく。最後には友人であると、終結していた。
●
天音を最寄りの駅まで送ったあとは、真っ直ぐに帰宅した。シャワーを浴びて、適当に晩ご飯を済ました僕は、しばらく茫然とテレビを視聴した。うんちくを並べるバラエティ番組や、世界の仰天する本当にあった事件簿、数年前に流行した映画、一通り視聴した僕は、また本を開いた。僕らの学生時代の断片。実際に起こったことになぞらえた小説を読み返していくと、記憶が蘇った。
僕が姫岡と初めて話したのは高校一年生の秋頃だった。中田に連れて駅の駐輪場に行くと、名前を忘れた女子生徒と姫岡咲がいた。二人が隣のクラスの女子生徒であることは認識していた。
しかし、どうして中田が彼女達を、僕と鉢合わせたのかはよくわかっていなかった。 後から聞いた話だと、名前を忘れた女子生徒が僕に興味があったらしい。その後に何もなかったことを考えると、僕が思ってたのとは違ったのだろう。姫岡とは進級して同じクラスになったが、取り立てて話すことはなかった。僕から姫岡は特別な世界の女性に見えた。容姿が優れているのはもちろんだが、いつも笑顔で愛嬌があり親しみやすい。時折見せる凛とした表情とのギャップも、性別を超越した魅力があった。
ある日、メールが届いた。登録をしていない番号からのショートメールで、文面から姫岡咲からのものだとわかった。
ここからだ。僕と姫岡は学校で、あまり話すことはなかったが、メールでやり取りをするようになっていく。学校での何気ない出来事や、最近のちょっとしたブームの話もした。クラスでの噂は姫岡から聞くことが多かったかも知れない。ただ姫岡から自身の悩みを聞いたり、抱えてる問題を聞くことはなかった。
タバコ事件で友達を庇ったことも、裏掲示板で姫岡が悩んでいたことも、僕は何も知らなかった。姫岡に自殺する動機があったなんて、今日まで微塵も思ったことがない。事故であると信じて疑わなかった。僕はなんて愚かなのだろう。彼女の友人のつもりでいた。それなのに、彼女の苦しみを少しも理解していなかった。
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