第6話

 上司と相談して退社することが決まった。契約社員は退社する時に、有給を買い取って貰える。以前に契約社員をしていた頃は、有給を買い取って貰い40万近くの収入を得たことがあった。10代だったので給料明細に記載された規格外の額に歓喜したことを覚えている。頑張って正社員になれば、高給取りになれると希望を持てたし、遊ぶお金がたくさんあるのは単純に嬉しいものだ。だが、今回は全てを消化させてもらうことにする。これで自由に使える時間が増える。寮は退出しなければならない。退職とはどうにも、めんどくさいものだ。

 

 工場内の二階に増設されたプレハブタイプの事務所を出ると、機械の騒音が耳を劈く。担当の作業場に戻り、再び作業に従事する。


「やめるのか」


 隣で作業をしている渡辺さんが言った。


「ええ、今週いっぱいで出勤はしない予定です」


「そっか。お疲れ様」


 会話はこれだけだった。工場の契約社員は契約を全うせずに退社することは珍しくない。同期の半数が、一ヶ月以内で行方不明になった。選択肢としてはありだと思う。労働環境も決して良くはない。熱中症で倒れる人は後を絶たないし、死亡事故だってある。命を削る。無理をしてまで働く必要はない。所詮は正社員ではなく、使い捨ての契約社員なのだ。いかに高額な給料を貰えたとしても、割りに合わないと当人が感じるなら、やめればいい。


 その日の夜は、とても静かな夜だった。休日前になると隣人は、騒ついて煩いし、線路が寮から近いので、電車の振動を感じることがしばしばある。前者は本当に静かだったとしても、後者に関しては僕がいつにもなく集中していたからだと思う。「ようするに君が好き」は数年前に読んだことがあった。細かい内容は忘れていたが、概ね楽しめた。ただ不思議に思うこともある。平間学位とは、いったい何者なのだろうか。クラスの内部事情をよく知る人物であることは確かだが、個人的な情報にあまりにも精通している。ただ創作も混ざっていることも確かだ。中田は内藤に好意を抱いていたが、僕の記憶では中田と内藤は付き合ってはいない。内藤は高校3年間という一度きりの青春を、一人の人物に捧げていた。つまり中田は片想いで、終わったはずなのだ。


 思考を巡らせていると、携帯端末が激しい点滅をしていることに気づいた。ディスプレイを確認すると、天音からの電話であった。


「もしもし」


「ヤッホー。あれから調子はどう?」


 やけに間の抜けた声だ。アルコールでも入っているのだろう。時間は18時前だが。天音とは、それほど仲がいいわけではないので断言はできないが、意外にも自由に生きているのかも知れない。無論、自堕落と言う意味だ。


「調子も何もない。わからないことだらけだよ」


「本は読んだんだろ? 新しい発見でもあるんじゃないか。君の現時点での考えを教えてくれ」


 僕の考えなんて聞いてどうするのだろうか。疑問をなぎ払い。僕は思考を巡らせる。


「思ったんだが、もしかしたら姫岡が日記を書いていたんじゃないか。小説は高校生男子の日記だけど、実は姫岡が日記を書いていて、平間学位は偶然にも日記を手に入れた。そこから着想を得て物語を書いたのかも知れない」と僕は不意に思った思考を言葉にした。


「どうしてそう思うんだ? 根拠は?」


「根拠は難しい。ただ登場人物は実在するが、全てが事実と同じではない。所々に創作だって混じっている。今後の話を聞いていくなかで、小説の中でのエピソードがもし真実であると言うなら、やはり当事者、当時のクラスメイトが書いたことは確実だ。だけど、日記が実在していて、それを手に入れることができる人物がいたとしたら」


 日記を参考にして小説を書いたなら、なにも小説家である平間学位がクラスメイトであるとは限らなくなる。小説の内容もかなり誇張をしていて、姫岡の死には、何の事件性もないし、ただの悲しい事故である。そうなってくれた方が、みんなが幸福になる。僕も、天音も、クラスメイトも。


「それなら、第三者が書いた可能性も浮上するな。最有力は姫岡の遺留品を読める立場だった者、親しい間柄の人物。もしかしら生前の姫岡が日記を書いてたことを知っていた人物かもしれない」


「そうかもしれない」


「君は、世界一美しいミイラの少女を知っているか?」


「ミ、ミイラ? 急に何を言い出すんだ」


「とある将軍の娘が2歳を待たずして病気で亡くなったんだ。将軍は深く悲しみ、娘に防腐剤を施した。エンバーミングというやつだ。遺体は生前と変わらない姿を保てるようになり、将軍は毎日のように娘の姿を見に来るようになった。一人の父としてはそれが正しい選択であり、娘を思う最善の選択だったと当初は思ったんだろうな。しかし、将軍はいつまでも変わらない娘の姿を悲しむようになり、ついには訪れなくなった」


「それがなんだよ」


「小説家は、姫岡を思って書いたのだろうと、私は思っている。それが彼なりの決別の証だったんだ。だが、今になって自身が苦しむ結果になっている」


「そんないい話ではないかも知れない」と僕は呟いた。


「ところで今日の7時からだったよな」


「ああ。今日の7時に中田とご飯を食べる約束をしている」


「私はいけないが、姫岡のことしっかり聞いてきてくれよ」


「母親かよ。そんなに心配しなくてもいい」


「本当か?」


 今日の7時から僕は、中田と会う約束をこじ付けている。中田とは高校を卒業した後も連絡を取り合っていたこともあり、僕が連絡役を承ったのだ。中田は少し驚いていた。そりゃそうだ。僕から連絡したことは、数えられるくらいに少ない。ただ、中田の都合で今日の7時に会うことになったが、天音は先約があるようで来られないようだった。


「特に問題はないと思うが、むしろ中田ならまだ聞きやすい」


「そうか。仲は良かったのなら運がいい。よろしく頼む」


 電話を切った後に自然と嘆息が漏れた。




 コンビニで待っていると、デニムに白いTシャツ姿の中田がやってきた。僕は車から降りて彼を出迎えた。


「久しぶりだな」


「そうだな」


 中田とは五年以上も連絡すら取っていなかった。二十歳ごろまでは彼から連絡が会って遊ぶことがあったが、次第に疎遠になっていった。彼が結婚していたことも、最近知ったくらいだ。その程度の仲であったとも言える。だが、かつての友達に会うのは、嬉しいものだ。学生時代よりも少し肉付きよくなり、無精髭をよく似合う容姿になっていた。


「お前から連絡が来たのは驚いたよ」


 中田はそう言いながら車のフロント辺りに視線をやっていた。凹んだボディが痛々しい。


「深夜に猫を轢いたんだ」


 あの時のことを思い出すと、言葉を失っていく。その様子を見いていた中田は察して、口を閉じた。ただ、「気の毒に」と表情を露わにした。


 中田を乗せて車を走らせると、普段よりも車の動きが悪い気がした。信号待ちになり、僕は言った。


「中田って結婚したんだろ? 今日は良かったのか」


「大丈夫だ。気にするなよ。たまにはこう言う日がないと、逆に疑われる」


 何を疑われるだろうか。僅かな疑問符を遮る。


「なら、いいけど」


 適当な近所の居酒屋に入り、中田はビールを注文した。僕は運転手なので、ソフトドリンクだ。まあ、お酒は飲めないので、いつでもソフトドリンクだったりする。


「やっぱり。雰囲気は大事だよな。店で飲むビールは格段と上手く感じる」


「そう言うのものなのか? 僕はよくわかんらんね」


「そりゃそうだよ。家で我が物顔で飲んでたら、嫁に鬼の形相で睨まれるよ。薄給の癖にってな。怖い怖い」


 中田は凍えるように体を揺さぶる。


「相変わらず、演技派だな」


「何を言うか。お前には負ける。そう言えば、結婚とかは?」


「してないよ」


「そうか。そんなに悪いもんではないと思うぞ。仕事も頑張れるし、子供は可愛いし」


 先刻まで嫁の愚痴を言っていた人間とは思えない。中田の表情から幸福が読み取れた。


「相手がいたらいいな」と僕は言うが、もうすぐ無職になることは確定的だったりする。まずは仕事を探さなくてはならない。


 注文した料理を一通り胃袋に詰め込むと、中田は切り出した。


「それで急に呼び出してどうしたんだよ。なんかあったのか?」


 中田の問いを皮切りに僕は、小説家「平間学位」の存在と、姫岡が事故死ではなく、自殺もしくは他殺の可能性があるのではないかと、話した。上手く伝わっただろうか。少し不安になる。ただし、小説に登場する人物を虱潰しに当たっていることは、伏せた。余計な情報だろう。


「つまり俺が知る姫岡のことを話せばいいのか?」


「まあ、そう言うことだ」


「姫岡とはゲーム仲間だった。それくらいなんだよな。あいつ見た目と違って、結構なオタクで。よくアニメやゲームの話をしてた。ハンモンが流行った頃は、帰りにマックでゲームしたこともあったな」


「そうだよな」


 中田と姫岡の仲は、僕も知っていた。真新しい情報はないように思える。


「まあ、俺が姫岡と仲が良くなったのは、二年になってからだから。それ以前は知らないが、あいつは確か、一年の頃に登校拒否をしていたはずだ。いじめが原因で」


「いじめか。僕もそんなに知らないけど。すごかったのか?」


「どうだろう。本人にも少し聞いた、と言うか一緒に見かけたことがあるだろ。姫岡がハサミで手首を切ろうとしたの」


「そうだったな。そんなこともあった」


 一年生の秋頃だったと思う。人通りの少ない渡り廊下で、姫岡がハサミで手首を切ろうとしていた。僕はそれを見ていた。ハサミでは上手く切れるわけもないのだが、姫岡は涙を溢しながら必死に手首を切っていた。姫岡とはそこまで話したことはなかったが、僕は心配になり近くまで行こうとした。けど、怖くなって、引き返したんだ。その事件がきっかけで、姫岡は学校に来なくなった。当時の僕が聞いた話では、姫岡は春頃に、陰湿ないじめの対象になっていた。原因は男子からのセクハラだ。強気な対応が仇になり、男からからかわれるようになり、どう言う訳か、淫乱、売春をしているなど、根拠のないデマが広まった。余波はクラスの垣根を越えて、喧伝されたことで、女子からも省かれるようになる。そうして姫岡は登校を拒否するようになった。


「それでお前はどう思うんだよ?」


「何が?」と僕は聞く。


「姫岡が事故なのか、自殺なのかって話だよ」


「他殺は疑ってないんだな」


「そりゃあそうだよ。警察はそんなにバカじゃないだろ。事件性はない」


 中田の意見は正しい。日本の警察が事故と断定したなら、事故なんだ。自殺ではないし、他殺でもない。


「姫岡は確かにいじめられていたけど、自殺を選ぶような弱い人間じゃない」


 姫岡は強い人間だ。少なくとも学校には再び通うになった。学校側も問題視して、いじめをしていた生徒は厳重な注意を受けていた。姫岡にとっては過ごしやすい環境が整ったはずだ。


「僕も事故であることは、否定しないよ。二年生になるとクラスの殆どがやめたし。なんならヤンチャな奴らは全員辞めたし」


「そうそう。D組は学校を辞めるやつが多くて、俺らのクラスと合併したんだよな」


「今思うと不自然ではある」


「なんだよ。クラスの合併にもいちゃもんをつけるのか?」


「そんなつもりないけど、調べてると色々と怪しく感じるんだ」

 

 僕はドリンクを啜った。


「確かに都合が良すぎるようには思うが、考えすぎだろ」


「けど都合が良過ぎはしないか? 姫岡をいじめていた奴らが、次から次へとやめていったんだ。不自然だ」


「考えすぎだ。今はマシになったが、俺らが通っていたあの学校は元々ヤンチャで有名だったんだ。素行の悪いやつが次から次へとやめたくらいは、大した問題じゃない」


 中田の言っていることは事実だ。姫岡が在籍していたDクラスは、入学当初から退学する生徒が多く、二年生になる頃にはCクラスとの合併が余儀なくされた。特に進級のタイミングで、多くの生徒は退学することになった。原因は成績不振である。おそらく生徒の大半が偏差値という概念を知らない。通っていても選択肢の少ない高校だったので、わざわざ留年してまで在学を希望する生徒はいない。教師側も高校の汚点は積極的に排斥したいのが本懐だったので、特別な処置を行うことはなかった。ここは教育する場ではないのだろうか?と在学中を思っていたが、社会人にもなると、世の中の厳しさを教えるには、いいことなのか、とも思う。


「二年生にもなっても、素行の悪い奴ら退学していったよな」


「確か、タバコが原因だったよな?」


「コンビニの裏で吸ってたのを一斉に見つかった。確かだけど、誰かが密告したんだ」


 指導担当の先生に現行犯で捕まった生徒たちは、下校途中にコンビニの裏で、たむろしてタバコを吸っていた。定期的に集まってタバコを吸っていたことは、生徒間では有名な話だったようで、誰かが密告したと言われている。偶然にも、密告された生徒は、過去に姫岡と関わった人物でもあった。いじめた者もいれば、交際を仄めかされた人物もいた。


「狭間もその中にいたよな」


「よく覚えているな。狭間くらいだったよ。タバコ事件で退学を免れたのは。運がいい奴だ」


「密告したのは誰だと思う?」


「まさか姫岡って言うんじゃないだろうな」


「そのまさかだよ。動機だってあるしな」


 動機はある。そんなことはわかっている。だけど、「姫岡はそんなことをするタイプではないだろ。そんなことは中田にだってわかっているはずだ」


 僕は語尾を強く言っていた。こんなに感情的になることは、久しぶりかも知れない。


「その通りだ。姫岡はそんなことをするタイプじゃない」


「だけど第三者の視点になれば、その可能性も考えないといけないかも知れない」


 姫岡には自殺する動機がある。なんなら僕達は、姫岡がリストカットをする瞬間を見ていた。家に引きこもった姫岡は、次第に憎悪と憤りを募らせて、登校を再開した。全ては復讐のために、復讐をする機会を探っていたと。なんともありそなエピソードではないか。姫岡をいじめていた生徒たちは、ことごとく退学処分となり、姫岡の悲願が叶うことになる。しかし、退学した生徒たちは、姫岡に復讐を考えようになってしまう。復讐の連鎖、螺旋するように回っていく。そして、姫岡は自殺をした。負けたのだ。最後の最後の陰湿ないじめに負けて、自ら命を経った。


 ここまでの話はあくまでも憶測である。僕の妄想だ。姫岡はそんな弱い人間ではない。僕はそのことを誰よりも知っている。


「なあ、中田。姫岡が事故を起こしたあの日。お前は何をしてたんだ」


「何も普通に帰ったよ」


「あの頃の姫岡って、どんな感じだった?」


「いいや。普通だったと思うよ。なんなら彼氏がいたと思うよ」


「そうなのか」


「だからなんだろうけど、いつも楽しそうだったよ」


「それだけか?」


「それだけだよ。それだけで充分だろ。恋愛ほど、幸福なれるものはない」


「そう言えばお前はそんなキャラだったな」


 僕は自然と微笑んでいた。

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