第4話
どれくらいの時間が経ったのだろうか。藺且は、目が覚めるとおぼろげながらではあるが、天井に二つの顔があると認識した。次第に輪郭がはっきりしてくると、一人は短髪で痩せ細り、もう一人の方は長髪であったが、額と目尻にしわが刻み込まれた丸顔であった。そして、白い衣服を身に着けていることが分かった。
「気がつきましたか?」短髪の男が話しかけてきた。
「ここはどこですか?あなた方が私たち二人をここに連れてきたのですか?」藺且は寝具の上で横になった状態で眼前の人間に聞いた。首だけ動かして辺りを見回すと、藺且の左隣で同じく横になって眠っている恵子が見えた。
「はい、そうです。このスポイトで貴方たちを吸い上げて……、と言ってもよく分からないですよね。単刀直入に言います。これからは、あなた方も有用な個体として受け入れ、こちらの世界で過ごしていただきます。お連れの方には、気がついたら、またこの世界についてご説明いたしますので。」短髪の男は、細いガラス管を右手に持ちながらそう言った。その一言で、ああここは外部の世界なのかと瞬時に理解した。ただ、いろいろと聞きたいことはある。
「その、いろいろお尋ねしたいことがあるのですが、よろしいでしょうか?」
「かまいませんよ。」
なぜか起き上がることが出来なかったため、横になったまま聞いてみることにした。
「あの、先生からある程度聞いていたのですが、ここが外部の世界だとすると、あなた方がここで監視を続け、有用な個体だけを外部に引き抜く意味は何なのですか?」
「楽園を作るためですよ。」
「楽園……、ですか……?」
「ええ、そうですよ。」長髪の男が、藺且の近くに球体の入った透明な箱を運んできた。
球体は、青と緑の模様が描かれ所々に土の色が垣間見えており、箱の中で宙に浮いていた。二人の男は、この塊を「ちきゅう」と呼んでいた。おそらくこの球体がこの世界で作った団粒構造なのであって、この球体に藺且と恵子、そして荘周が過ごしていたのだろう。
「なるべく有用な個体をこの球体から引き抜き、外部で監視している世界に住まわせます。引き抜く方法はいろいろありますが、泥人形を用いたのは一例です。この世界に、あなた方以外にも引き抜いた有用な個体は、沢山います。
その後、有用な個体と外部にいる個体との間で子孫をつくり、有用な個体を引き継ぎます。そして、その世界が何かしら危うくなったら、さらに外部へと……。そのような形で繰り返していき、有用な個体だけが住む楽園も築けるのではないかと。」長髪の男は、『ちきゅう』を指さしながら説明した。
「そ、それは、無理ですよ!」藺且は、大声で怒鳴った。「楽園など築けません。どんな構造にも隙間があるように、どんな生物でも欠けた所はあるはずです。世の中を乱す個体は必ず出ます。そもそも何をもって有用だというのですか?それに、自分たちの世界を監視してくれる外部の世界がない場合、つまり、入れ子の一番外側に位置する世界は一体どうなるんです?その世界でまた今回のような似た問題が起きたらそこから外部の世界に有用な個体を出すなんてことはできません!その世界で終わりですよ!」
「そんなことはないですよ。土壌内の団粒構造も無数に存在します。それと同じく、外部の存在も無数に存在します。我々の世界が危うくなったら、さらに外部の存在が助けてくれるはずです。まあ確かに、何を基準にして有用なのかは難しいですが、多様な思考や概念や価値観を持っており、矛盾したとしても全てをあるがまま受け入れるというような個体を有用としています。」
有用の基準が漠然としすぎではないか、それでは次の外部の世界に責任転嫁しているのではないか、と藺且は思った。
「あなた方が、我々の住んでいた世界に介入して、斉・魏・楚の動きを止めることも可能だったのではないのですか?私たちの世界、あなた方の世界で別々に楽園を作るということも考えてもよろしいでしょうに。」
今度は短髪の男が応えた。「私たちは、種の多様性を尊重していますからね。なるべく介入しない方が良いのですよ。有用な個体を引き抜くというのは、最低限の介入です。ただ、監視を続けていくうちに、人の国を乗っ取る、奪うといった横暴な個体まで出るようになってしまいましたからね。皆自由に活動しすぎたのですよ。ですから、そろそろ潮時だと思いまして、なるべく有用な個体だけを助け、新しい世界、外部の世界に住まわせることにしたのです。本当ならあなたの言う先生をお連れするつもりだったのですが、」
「あなた方は、こんなことを永遠と続けなさるおつもりですか?それにこの世界で問題が起きて、外部に引き抜かれる時、私やあなた方がまた引き抜かれるとは限らないんですよ。」
「それでも良いですよ。最終的に楽園を築けるのなら本望です。ここまで生きてこられたことに感謝するだけです。」
この大夫たちはおかしいのか?それとも私がおかしいのか?藺且は、分からなくなっていた。
「あなたの先生でさえ、あるがままの世界を受け入れると言っていたのでしょう。だったら、我々がしていることも咎める義務はあなたにはないはずです!有用な個体を外部に受け継ぐ、これは自然の摂理と似たようなものでしょうに。まあ、元いた世界に戻りたいと言うのなら元の世界に戻すことも可能ですけどね。止めはしません。」
もうこの二人と口論しても埒が明かないだろう。藺且は元の世界に戻るべきか悩んだが、自分の師に言われてここに来たのだ。生き延びたものの責任ということで、藺且は、この外部の世界で生きていくことにした。生きている間だけでも、先生から学んだことを後世にも語り継いでいこうと決心したのである。
その後、月日が流れ、荘周の語った内容は藺且や恵子を始め、多くの人に語り継がれていった。最終的に『荘子(そうじ)』という書物にまとめられたが、泥人形については、南郭子綦と顔成子游の問答しか書かれておらず、後は荘周の思想ぐらいしか記されていない。
また、それらの書物が藺且のいた世界でまとめられたものなのか、それよりもさらに外部の世界で監視している存在によってまとめたものなのか不明である。
天の隙間 枝林 志忠(えだばやし しただ) @Thimimoryo
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