シアタールーム
シアタールームで、僕は僕と彼女の映像を見ている。画面越しに客観的にみる僕らの姿はあまりに不釣り合いで、彼女の隣を歩いている僕の部分だけ、別のフィルムが紛れ込んでしまったかのように思う。僕は僕が恥ずかしくて、この映像を切って立ち去ってしまいたくなる。けれど僕の根っこの腐った部分が、彼女を手放すことを許さない。
画面越しに見ると、余計に僕は彼女の本心がわからない。果たして彼女は、僕と一緒にいていいのか、僕と歩いていることが恥ずかしくないのか。これら口にしてはいけない言葉は、僕の中で陽の目を見るために、天井に当たっては落ちている。少し、また少しと、鬱屈とした感情が満ちていくのが分かる。口にしてしまえば僕は一時的に楽になれる。ただ、その先に彼女がいないのなら、今限りの安寧などすぐにたたき壊されてしまうだろう。
だから僕は僕の中に満ちる液体が、表に出ていないか心配でならない。映像にうつる僕の姿から、余計に目を背けることができない。暗緑色の斑点が、身体のどこからか現れてはいないか。彼女の目につき、軽蔑の眼を向けられていないか。自分の醜い部分を必死で隠して彼女に縋っている。彼女の人生から搾取している。このような邪魔者を、彼女がなぜ受け入れているのかわからない。あるいは何も、関心がないのかもしれない。僕の狭苦しい世界では、彼女の占める比重は何よりも大きい。ただ彼女の雄大な世界では、僕は路傍の石ころに過ぎないのだろう。人にやさしくするためには、自分自身に余裕が必要だ。自分のキャパシティに空きがなければ、人に裂けるリソースなんてないに等しい。僕はないに等しい存在だからこそ、存在することを許されているのかもしれない。
昔はこのような憂いはなかっただろうか。過去の自分と未来の自分、そして現在は連続していないという。ならば過去は過去として、もう少し肯定的に自分を見られていただろうか。どうにも違う自分の姿は思い出せない。今の自分からあまりに距離が離れてしまって、もう自分の正しい姿を知ることもできない。
ただ、一つ、連続していない自分がよくよく当てはまるのは、他人こそだとも思う。あの日の彼女は、もうここにはいない。笑い合ったのも、泣きあったのも、ひいては「彼女」という記号を与えられた誰かであって、今の彼女とは似ても似つかない。過去の彼女がそうであったからと言って、これから先の彼女に同じことを求めてはならないのだ。
あの頃を楽しんだのは僕でない「僕」であって、一緒にいたのは、彼女でない「彼女」。それはこのシアタールームのように、一定の距離があって、すべては過去形だ。すべて他人事で、観客の立ち位置にある今の僕は、感想を抱くことはできても干渉することはできない。
画面の向こう側にいる二人の姿は過去と今が織り交ざって見える。それが余計に苦しいのだ。この乖離が大きくなるほどに、映像が終わる瞬間が近づいているように思えるから。
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