天国の入り口
普段腰かけて読書をしている桃の木の端に、身体が一つ引っかかっていることに気が付いた。風に吹かれて今にも飛んでいきそうなほどに軽やかで、実体がないようにも思える。しかしきしむ枝の悲鳴が現実のものであることを物語っている。この世界では、身体は非常に貴重なものだ。僕はもっていた本を投げだして、木に引っかかっている身体を慎重に下ろした。
身体には精神も宿っているようだった。うめき声、かすかに開いた唇の隙間から、漏れ出る息。一見、まだ生きているようにも思えるが、この場所にたどり着いている時点でその可能性はない。ここは天国。生命が生涯を終えた後にたどり着く場所。いかにこの身体がまだ生きているように思えても、一寸たがわず幻想だ。取りつかれていては、蝕まれるように苦しくなるだけだ。それはこの肉体にとっても不幸で、この身体は早く現実を受け止めなくてはならない。
肉体を持って天国にたどり着くのは稀有な例だ。本来、天国は死後、朽ちた肉体から解放された精神が、物のことわりから解き放たれて宇宙の加速度的膨張に取り残された結果として、たどり着く場所なのだ。物質ありきのこの世界で、物質的な肉体が役割を終えた時、精神を世界に結び付ける糸は希薄になる。そうしてはじき出された精神が、広大な宇宙空間をさまよった末に、ここに惹かれるのだ。肉体が割り込む余地などどこにもないはずで、それだけに未だ形ある肉体が流れ着く原理は解明されていない。かくいう僕も、噂に聞いたことがあるのみで、実物を見たのは初めてだった。恐る恐る触ってみる。手のひらの上で転がしてみる。話すと、地面に重みをもって落ちた。僕はこの肉体の使い道を考えていた。現状、この身体の存在を知っているのは僕のみだ。僕がその行方を捻じ曲げてさえしまえば、きっと誰にもわかることはないだろう。
物質的な肉体は、漢方薬として重宝されていると聞く。また、悪趣味な好事家の間では、コレクションとして高値で取引されているようだ。金になんら執着はないが、「売る」という行為に興味はあった。僕は誘われるままに、この肉体を紐で結び、隠すことにした。
見られていることに気が付いたのは、しばらく歩いた後だった。天国のほかの住民にではない。かの肉体が目を開けて、こちらを見ていたのだ。肉体は何も語らない。ただ見ているだけだ。ただ見られているだけなのに、どうにも背筋をくすぐられているように感じる。気味が悪くて、僕は肉体を手放してしまった。
しばらくのちに、街で「肉体」がみつかったとのうわさを聞いた。どこかの誰かが、僕に代わって売りさばいたのだろうか。肉体は、あの眼で何人の邪心を非難してきたのだろうか。非難されていると思っているのは、僕だけかもしれない。ただ、あの刺すような眼は、肉体から解放された幸福を、弄るような不快さを送り付けてきたの。
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