山を登る

 山を登る。脚を無心で交互に動かす。汗はこめかみを通って、頬を流れ、顎を伝って地面に伝わる。去り行くものを追いはしない。この長い道のりは、ただ僕一人のものになった。はじめは多くいた人々も、気づけばいなくなっていた。木に呑み込まれたのか、足をくじいたのか、自分の意志で去っていったのか。どれを選んでも結果が変わらないのなら、自分にとって一番つらい現実を受け止めたい。地面に顔を向けていれば、周りの様子などさして気になりはしない。暗くなって、明るくなる。長い長い山道は、ただひとりで登り続けるには退屈なものだった。

 暗くなったら路傍に腰を下ろす。擦れて汚れた布切れを纏って寒さをしのぐ。僕にできることはそれだけで、僕が持っているものといえば、布切れと水と、いくらかのご飯。家から盗んできた懐中電灯は、仕組まれたように電池切れだった。捨てるのも忍びなかったので、腰ひもに結び付けている。歩くたびに揺れて脚に当たる。煩わしく感じながらも、僕に残された数少ないものだったので、大切に取ってある。たとえ僕を照らすことも、導くことも今後なかろうと、僕にはすがるものが必要だった。

 引き返す選択肢はなかった。どこからか誰かに見られている、そんな予感があって、歩み続けるほかなかった。人の目が何よりも怖かった。他人の目に評価されて、僕の一挙手一投足に点数が付く。簡単な失敗一つで必要なしのレッテルが貼られて打ち捨てられる。木々の合間、岩の合間から、たくさんの目が僕を見ているのだ。だから僕は、進み続けなくてはならない。

 そうして生きてきて、ようやく頂上が見えた。不自然に切り取られたように頂上は切れている。草も木も岩も土も、ある境界線を境に、その先に存在することが間違いであるかのように。すぐに、それがこの山の頂上ではなく、天井なのだと気づいた。透明な天井があって、山はそこで途切れている。僕が目指してきた先は、どこを探そうともうどこにもないのだと悟った。

 座り込んで、この場所からの景色を見下ろした。長い長い道のりが意味を失って、枯れて朽ちていく。僕が今まで歩んできた道のりが、すべて線がほどけて溶けていく。

 ここまでたどり着いたことが間違いだった。早く引き返しておけば。早くやめておけば。知りたくなかった景色。見たくなかった景色。

 途中に何度も危険な箇所があった。けがをして、引き返そうと思った時もあった。それでも山を登り続けることを選んだのは他ならぬ僕だ。

 いつからか、この道のりはただ一人のものになった。もう隣にも、後ろにも、前にも誰もいない。意味のない山の上で、引き返す余力もなく、ただ街の様子を見ている。

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