原子幻想

 男は鉄の塊に腰かけて空を眺めていた。彼のいる足場は非常に狭く、人二人分ほどのスペースしかない。何をするにも足りない空間の中で、ただ見ていることしか許されない。空気がゆっくりと流れていく。たくさんの粒が、思い思いの方に行く。その中に、女が一人浮いていることに気が付いた。男は珍しいことだと思い、女に話しかけた。女も男の存在に気づき、ふわふわと泳いで男の傍に寄る。

「やぁ、私以外に会ったのなんていつぶりかしら。ごきげんよう」

「やぁ、僕も久しく自分以外の姿なんて見ていない。なんだか懐かしいような、気恥ずかしいような気分だ。元気にやってるかい?」

「まぁね」

 すぐに話すことがなくなって、女も同じように空を仰いだ。大気の流れは依然ゆっくりなままだ。

 時間の感覚までもゆっくりと感じられる。たくさんの球体が、彼らの上を過ぎていく。時にぶつかりあって、混ざっていく。時にはじけ、気づけばどこかへと消えている。その繰り返し。ずっとそう繰り返してきたし、彼らとて見飽きたような景色だ。彼らは合わせて手をついた。

「私たちの百億倍も大きなあの生物たちも、最近にぎやかになってきたわね。私たちの存在に気づくのも間もなくじゃないかしら」

 女はふわふわと浮いていた水滴を掬って舐めた。水滴は砕けて方々に散っていく。また別の塊にぶつかって、エフェクトは拡大していく。

「流石にまだだろう。僕たちと彼らを隔てるのは、そうたやすく超えられる壁ではない。僕たちはずっと彼らを見てきた。ただ、それは歴史のどの分岐点に立っても、一方向的なものだ。見るのはいつも僕らのほうだった。きっとこの関係は、神が定めたものだ。僕たちの安寧は、きっとゆるぎないだろう」

「果たしてそうかしら?」

 女は意地悪く笑った。男はその態度を訝しんだ。ふと、空を大きな黒い影が覆った。世界は一時暗転する。男はハッとする。覗かれたような感覚があった。まさか、そんなことはありえない。束の間のこと、思い過ごしであることを明にするように、また空は晴れる。嘘くさい青空が、彼らを見下ろしている。

「私はそろそろいくわ。あなたも、元気でね」

 二人は離れていく。二人が会うことはもうないだろう、この無限の世界では。大きな影は、どこかに消え去ってしまった。どうしても忘れられず、男はまたずっと空を見ている。いつも通りの空が繰り返す。ただその中。男は、違和感を覚えなくてはいけなくなった。

 きっと、まだすべてを知らない。しかし、いつかはここにたどりつくのだろう。小さな存在に気が付くのだろう。男はその時何が起こるのか、ぞくぞくと背筋を震わせながら、待っている。

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