トランク
アパートの裏庭にトランクが置いてあった。革でできていて、二本のベルトに巻かれている。地面に置いてあるのに、不気味なくらいにきれいだ。住人誰かの忘れ物かとも思われたが、先週僕以外に唯一残っていた大学生が、卒業してどこかに行ってしまったのだ。ならばこれは、彼の置き土産か、大家の忘れ物か、あるいは間抜けな泥棒の戦利品に違いない。
何か金目のものがあるかもしれない。そんな不純な動機で、トランクを両手で抱え込んだ。石塀にさえぎられていて、外の人にはこの様子は見えない。見えたとしても、アパートの住民がアパート内の物をどうこうしているのだ。怪しまれる筋合いはない。降ると、重みのあるもの、軽いものが交互にぶつかりあう音が聞こえた。部屋に持ち帰って、さっそく開ける試みを始めた。
鍵穴は二か所にあった。叩いて壊れる類ではなく、一応頑健な作りのようだ。見よう見まねで鍵屋のまねごとをしてみたけれど、開きそうにない。三〇分ほどで集中も切れてしまって、ごろんと床に寝転んだ。まどろみの中で、トランクが一人手に開く音を聞いた。びくともしなかった錠前の中で、うねうねと何かがうごめいている。からくり細工のようにどこか噛み合って、僕を受け入れる準備を始めていた。
それは夢ではなかった。開いていないはずのトランクが開いている。何事かと訝しむ。ただすぐに中身への関心が取って代わって、僕に早く開けろと急かす。手に汗にじませながら、トランクを開く。新しい色合いにも関わらず、錆びた鉄の擦れる音がした。
中には法則性のないものがいくつか乱雑に放り込まれている。例えば、一番価値がなさそうなのは、ハンカチだ。一般的なタオルハンカチ。これもまた新品のようだった。一番高価そうなのは、一眼レフカメラ。先ほど少しトランクを振ってしまったが、どこも壊れていない。一番不思議だったのは、市販の黒豆が入っていたことだ。たまにスーパーで見かけるもので、期限はまだ一週間ほど残っている。このトランクの中で時間が止まっていたかのように、どれも真新しい。
金目のものは、カメラくらいしかなかった。生活費のろくな足しにもならない。財布や札の一つでも入っていることを期待していたが、このトランクの持ち主はよほどの変わり者らしい。どれもこのトランクに入れるほどの品ではないだろうからだ。関心はすぐに失われていく。このカメラだけ拝借して、後でまた元のところに戻しておこうと考えた。
カメラを起動する。データは何も残っていなかった。無造作に構えてシャッターを切った。不意に、眠気が改めて訪れた。ただ、次の眠気は、魂ごと連れ去って沈んでいくような眠気だ。カメラだけは取り落とさぬよう、部屋の隅に置いた。眠気に身を任せると、頭がじんと熱くなった。
僕はカメラ好きの青年になっていた。外出の際に必ずハンカチを持ち歩く、几帳面な性格。幼いころからおせちでは、黒豆を真っ先に食べる。
人格を定義するのはほんのいくつかのアイテムで十分なようだ。もともといた僕は、もうどこを探してもいなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます