ねむる

 いつからか、眠ることが怖くなった。布団に入って、いざ目を閉じた時、瞼の裏にどす黒い暗雲がごうごうとうねりだす。眠気の靄の中に誰とも知らぬ影が笑っている。彼は手招いているようでいて、こちらに来るなと警告しているようでもあった。彼の誘いに乗ってしまえば、そのまま僕が消えてしまうように感じていた。

 眠ると、僕は彼に近づくことになる。彼の存在を直視せねばならなくなる。瞼の裏にある以上、目を背けることもできない。ずっと彼を見ていると、僕は僕が僕でなくなる実感を持つ。見ている僕と、見られている彼との間の分厚い壁が消えていく。こういう場面で、細胞膜は何の役にも立たない。僕はなされるがままに、彼の中に飲み込まれ、消えてしまうのだ。

 僕は、僕が眠っている間のことを何も知らない。僕が意識を手放すころに、体が、世界が、何をしているのか、僕にはわからない。それが僕には、怖くて仕方ない。理性が保っている僕の人間性を、素知らぬ顔で砕いているかもしれない。僕が寝ているのをいいことに、僕にふさわしくない行動を、為しているかもしれない。たとえ大切にしているものが壊されていたとしても。僕が知るのは結果だけだ。どう思おうと、その行為の結果に、誰も責任を取ってはくれない。

 眠るという行為の裏には、信頼と、あきらめと、自棄と無責任とがひしめいている。毎日不安と悔いるような気持ちに襲われながら、意識を手放している。布団は彼の協力者だ。僕の体温をあげて、僕が意識を手放すように差し向けている。僕の周りは敵だらけだ。僕自身も、積極的に僕を放棄するよう仕向けてくる。毎晩のように戦いに明け暮れながらも、僕はいつも勝てずにいる。

 眠りたくない。僕の意識が途切れてしまうことは、僕の人生が途切れてしまうことと同義だ。健康的だとかうまく口車に乗せて、皆眠ることを礼賛するが、すべて彼の企みなのだ。誰もそれに気づいていない。

 僕には恐ろしくて仕方ない。無意識の僕は僕ではない。そう言いまわっても、きっと誰も気にも留めないだろう。同一視して、僕を非難するだろう。僕は眠りたくない。僕が、失われてしまう。また、彼が誘っている。僕が僕を手放す瞬間を、彼は今か今かと待ち構えているのだ。


 ベッドの下から、そんな書き損じを見つけた。僕の記憶にはなかった。ただ、僕の字であることにはまちがいなかった。紙切れはくしゃくしゃにまとめて、屑籠の奥に放り込んでおいた。昨日削っておいた鉛筆の先は、擦れて汚れていた。

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