人さらい

 通勤中に前を通る雑木林の中。大人一人が頭をかがめなくても入れるほどの洞窟があることに気づいたのは、先週の月曜日のことだ。それから僕は、計画を練った。もちろん冒険のための計画である。

 齢二〇を超えたあたり、気恥ずかしさが何にも勝る。いかに胸を張って行動しようとも、周りの目は冷ややかだ。その中での冒険が、いかに難しいか。久方ぶりの冒険の種を前にして、僕は慎重にならざるを得ない。ただ気の赴くままに突き進める幼少時代とはもう違う。時間帯はいつがいいか。格好は何がいいか。土地の権利者は国か。誰に話を通せばいいか。調べるべきことは多々ある。準備は入念に行わねばならない。

 そうして一週間。計画は練りに練った。昼の十一時台がもっとも人通りの少ない。このために有給をとり、キャンプコーナーでランタンを買った。食事の装備も忘れない。中で迷った時のために、食パンも持っている。洞窟の口端に足をかける。ようやく訪れた、待ちわびたこの時に、全身の皮膚が波立つ。そうして僕は一歩を踏み出すのだ。

 ひたひたと反響する足音は、いつか観光で見た鍾乳洞と同じ。洞窟は思いのほか深い。この街の地理は考えないことにしている。行く先はどこらへんだろうとか。冒険の中に大人の考え方を持ち込むのは野暮だ。終わりが見えてしまうのはさらに白ける。湿度が高いようで、洞窟の壁が湿る。はやる心をいさめながらランタンをつける。出鼻をくじかれず安堵した。冒険はすぐには終わらない。

 頬っぺたを汗が流れる。考えが透き通ってきた。洞窟特有の、腹の上をなでて過ぎていくような妙な寒気のせいだ。自分の足音と、かすかな水音が心地いい。すっきりとした気分。僕が人生を通じて考えてきたことが、どんどんこぼれていく。なんとも心地いい。先へ、先へと足を向けたくなる。歩むほどに、僕の考えは洞窟に消化されていく。

 幕間。

 揺れ草と煽る木が見えて、それは外の光景だと気づく。先に抜けたらしい。先週つぶれた本屋の裏手に出た。洞窟で過ごした時間の鮮度が失われるのが怖くて、僕はそこから動けずにいた。鳥のさえずりだとか、虫の駈けずりだとか、そんな音が前うしろから聞こえてくる。引き返して来いと洞窟が言っている。それもまた本望だ。

 僕の考えは食われている。僕はもうとりこだ。次はどこに行こうか。この世界には大きな怪物が住んでいて、人知れぬ間に人を食らってしまっていると聞く。そういうものを探してみよう。

 とかく、僕はもう、喉が渇き、腹が空いてならないのだ。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る