3月
電信柱とぼく
仕事帰り。電信柱の陰にスーツ姿の男が入っていくのを見る。道端に生えているありきたりな電信柱。男はその裏に隠れたように見え、しかしもうどこにもいない。ぼくの目から線対称の位置にもいない。いくら見る角度を変えても、彼はもういない。神隠しか、並行世界への入り口か。彼は彼自身の自意識にのっとって電信柱にうずもれることを選んだはずだ。焦点のあった眼をしながら、彼は電信柱に消えていった。ぼくが電信柱の周りをぐるんと回ってみても、彼を見ることはもう叶わない。
大人の男一人が体格をすっぽりと隠すにあたって、電信柱は一般的に不向きだ。どうしても腕の二本ははみ出てしまう。気分によっては足先も隠してくれないだろう。冬の夜は気が早い。夕方にはもう暗く、電信柱もまた、雰囲気に気圧されている。イギリスの幽霊に取りつかれたような影を落としながら、電信柱は物言わない。きっとこいつが彼を食ったに違いない。よく見れば、電信柱の上方に、ライトがテラテラと揺れている。チョウチンアンコウがよく仕掛けるものだ。スーツ姿の男は、これに誘われてしまったのだ。
またある時は、その電信柱には傷口があった。人間のあかぎれのような、妙に生々しい傷口。紙で切ったのとも違う、ラップの切り口にあてたのとも違う。少し皮膚が欠損したような傷で、張り詰めていた皮がふと力抜けて開いたようでもあった。その傷口に触れると、もう、帰ってこれないだろう予感はある。それほどに艶美で魅力的だ。ふちをなぞるようにしていると、なるほど、スーツ姿の男が消えてしまったのもうなずける。彼の行方はとんと見当もつかないが、きっと彼も、電信柱の陰にあった何かに魅力を感じ、自分の意志で、飲まれることを選んだのだろう。弱さを見せることは、人を誘い込むことだ。この電信柱は、それをよく理解している。手のひらで躍らせるなんてくすぐったいだけだ。ただそれが好みの者もいるらしい。
百五〇円で買ったアイスを食べながら、ぼくは帰路についている。時折、スーツ姿の男が、電信柱の陰に消えていくのを見る。確かめるような足取りで、行く末に迷いはないようだった。ぼくも後についていこうとして、ふと思い返す。また、明日の仕事のことを考えている。休みだったなら、きっとぼくもまた、煌々と誘う明かりに従っていただろうに。後がつっかえていたので先を譲ることにした。スーツ姿の男は、やけに膨らんだブリーフケースを持っていた。あの中には土産の品でも入っているのだろうか。周りにはもう、誰もいなくなっている。先を譲るといったが嘘だ。恨めしそうな眼を避けて、ぼくは帰路につく。
ライトがひと度ゆれた。ためらう心のようだった。
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