明日またよろしく

 また、今日も始まった。夜0時を過ぎたころ、くるまった布団の足先が、もずもずと動き始める。僕の体温で満たされた布団は、異物の侵入を感じてなお、何も変わらない。もう一つの体温が、確かに足先から、こちらに向けて登ってくるというのに。ふさふさの体毛が足先をくすぐる。アタリだ。六五〇ミリリットルほどの大きさのネズミは、目が見えない。髭の感覚だけを頼りに、布団の中を突き進んでいる。

 それは、昨日の僕でもあった。まだ目新しい風景だ。気づけば僕は足元にいて、おなかめがけて進んでいる。目的は本能的に理解していて、意味を問うこともない。身体の衝動は、僕の脳に靄をかけて、考えることを許さない。盲目的に、ただ彼のお腹をめがけて突き進む。布団の妙な温かさが、少し僕の体温より高くて気持ち悪かったのを覚えている。

 昨日の記憶だ。そうして、僕は僕になった。寝転んでいる彼の腹を食い破って、昨日僕だった彼を追いやった。彼がどこに行ってしまったのか、行方は知らない。ただ僕の頭の片田舎に、今までの僕の記憶が、積み重なって置いてある。視界の意識しない隅にあって、目を離したら消えてしまうだろうことは理解できた。

 今度は、今足元から登ってきている彼が、僕になるのだろう。僕はいずこかに消えて、また新しい一日の僕として、彼が生きるのだろう。取って代わられることを知ってなお、逃げるような真似はしない。一〇数年前の僕は、逃れるために必死だったようだ。だけどもう、あきらめた。大人になった。これが普通なのだと、僕は思い知った。

 まもなく僕が消えてしまうとしても。残された僕の役目は、足元から登ってくる彼に、僕を安全に明け渡すことだ。僕を引き継ぐことだ。それは解放だ。僕にとっても、悪い話ではない。昨日までの僕らに聞いても、きっと同じ答えが返ってくるだろう。ストローを奥歯で噛みながら、清々した気分だったと笑うだろう。

 足元から登る彼は、太ももを過ぎた。僕が見る景色も、この薄暗闇の天井が最後になる。飾り付ける必要はない。それは次の僕の仕事だ。僕は今日に、もう未練はない。僕は僕であることに、もう未練はない。腹が避けるような音。肩が妙に軽くなって、意識がふわりと宙に浮く。

 僕は記憶の一端になる。足元から登る彼が、次の僕になる。重い鉛のような睡魔が、僕をどこかに引きずり込もうとしている。それは妙に心地いい。身を任せればいい。僕の仕事もこれまで。あとはゆっくりと、末席に座って眠っていればいい。宙に浮いた僕は、天井を透けて空に出た。あいにくの曇り空だった。

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