蜘蛛との対話

 夜。寝る前にする対話がある。それは、僕の部屋の天井隅に陣取った「蜘蛛」との対話である。僕と蜘蛛との間にある境界線の在り処についての対話だ。

 六畳ほどの一室。横にくっつくのは、お決まりの風呂トイレキッチン。僕一人であっても十分とは言い難い空間。そこに彼の蜘蛛が巣くうようになって、もう一年経つ。

 領土交渉が円満に進んだことはない。僕にとって、ここは僕の領域。けれど彼にとっては、勝ち取った安住の地なのだ。そこに齟齬があって、僕らはいつまでも分かり合えないままでいる。

 夜。この時間になると、僕と蜘蛛との対話が始まる。大抵、口火を切るのは彼のほうだ。部屋の電気を消す。夜の換気が済んで、冷たい空気で満たされる。逃れるように布団に潜り込んで、明日のアラームを二度三度と確認する。僕が携帯を置いたところで、機をうかがっていた声が、天井から降ってくる。

「やぁ、隣人。また今日も、僕らの境界線について話そうか」

 はじめは敬語で堅苦しかった声も、今はフランクになった。僕らの間の境界線はいまだ明確でない。上下も左右もない関係性の中で、気遣いは無用だと暗黙に了解している。「やれやれまたはじまった」と息をこねながら、僕もまた声を返す。

 横になっていると、天井に向けての声は出しづらい。普段とは別の筋肉が、無理して働いているのが分かる。半年ほど前に会合の在り方の見直しを提案したことがある。結局長続きせず、これが僕らの在り方となった。

「議題はまた、いつも通りだろうか」

「そのようだね」

 譲りはしない。ただ、無理に排斥しようとは思わない。僕と彼は、どこまでいってもフェアだ。暗い部屋の中で、僕が彼の姿を認めることはない。彼が何を見ているのか、僕は何も知らない。対話は三〇分に及ぶ。気づけば僕は寝入っている。彼が先に静かになることは稀だ。そのことで恨み言を吐かれたことはない。

 毎日の睡眠時間は、三〇分ばかし削られている。ただおかげで、一人暮らしのこの一年間、僕が孤独に苛まれたことは一度もない。

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