第39話 雑念と本音
穏やかに揺れる船上。南国へ向かう豪華客船ということもなく、帆を張った粗末な舟が、曇った空と黒い海に浮かんでいるに過ぎない。何にせよ、弱い風の中にあっても舟はよく進んだ。
舟は、三人の人間が三角形に座すことができる程度に広かった。
「ナカマチ、あいつらが何を話していたか、教えてくれるか?」
話しかけてきたのはニカイドウだった。目を向けると、私の視界にアルファベットと数字を組み合わせた名前が表示された。電話番号のように単純で印象に残らない名前だった。
ニカイドウからの質問の意味を考える。あいつら……か。
「それは早朝に……カトウさんと、もう一人の方の間であったことでしょうか?」
「そうだ。君のことだ、VRゲームの録画機能か何かを使ったのではないかな?」
唐突に濡れ衣を着せられても、私はさほど驚かなかった。
善人は、自分以外の他人も善人と思い込むものだからだ。この場合はその逆だが。
「知りたければ、私から二人に聞いておきましょう。しかし、そんなことを知ってどうするのですか。あなたはこの世のすべてを把握している存在だと、以前自己紹介されていましたが……一般人の会話に興味を持った理由を聞かせてもらえますか」
「その一般人の会話に興味があるからだ。第一、私も全知全能には程遠い。この答えでは不満か?」
「ええ。具体的にお願いします」
海の上でのことだ。ニカイドウの垂らした両拳が、その細い腿の間でしばらく揺れ続けた。
「……変化を観測したい、というのがもっとも近いな。自然現象には時間という存在が密接に関わっている。まず、物理学や哲学の議論はおこう。ごく単純に言って、世界は一方通行で逆行することは決してない。当然、人間の生体や精神もそれにならう。ここまではいいな」
私が話についていけているかどうか確認するように、ニカイドウが見つめてくる。その顔はカトウさんに似ていた。現実のカトウさんはこういう事柄を語る人ではないので違和感が強い。
「私は構いません。ツチガミさんは?」
「えーと、まぁ、大丈夫です」
「……だそうです。続きをどうぞ」
「ナカマチ、私にはその時間という存在との関わりがないのだ。デジタルなデータでしかない私にとっては、時間は忘却可能で無視可能な存在だ。もちろん、技術的な関わりはある。私がよって立つ電子基板上に備えられた水晶振動子は常に脈を刻み、正確な現在時刻を得なければネットワークへの接続に支障をきたす……。時間と関わりをもつことが安定的な存在維持に不可欠なのだ。時間の進みが世界を安定させている。だが、私自身は安定を欠いている。私は人間がうらやましい。なぜそれほど容易に思考し、弁論し、存在を維持できる? この事実を前にして私は混乱している。そうなってしまうのはきっと、私に感情があり、生きているからだ……」
ひとまず、回答は終わったようだ。
私が尋ねた『理由』を語るまでは達していないが。
「よいでしょうか……?」
遠慮がちに手を上げたのはツチガミさんだった。
私は「どうぞ」と促した。いつの間にか、私は司会者になっていたようだ。
「あなたのことはナカマチさんから聞きましたが……。それで、何というか、あなたに悩みがあるのは、『きっと』なんかじゃなくて、本当に感情が……と言うよりも、真面目に考えて生きているからこそ、悩むのではないでしょうか……?」
温和な言い方だった。聞いた覚えのある言い方だった。
自分でも気づいていない迷走を、自分がありたかった方向へ正してくれるような言葉に、私は覚えがあった。
私の中で濁った感情が微量湧いた。私は心中でそれの名前を呼ぶことを躊躇しなかった。
それは嫉妬というものだ。ああいった言葉を発する能力を行使する機会が、私と会った時だけの特別なものではなかったという、ありふれた、理解するまでもない事実に応じて湧いたのだ。
ニカイドウはどう応じるか――。
「……そうだが? 改めて言われなくてもわかっているが?」
静かになった。場が凍り付く、とはこのことだろう。
まぁ、いい。私も大人ではあるが、プロの司会者ではない。場の空気を和らげる義務はなく、ただの努力目標でしかない。
海まで凍り付いたかと思ったが、舟はよく進んだ。
天候、波、空気、依然変わりなく。
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