第38話 人入り


 午前の海。まだ雨は降りそうにないという程度の天候。

 海水が黒い海岸を洗い続け、空は水平線まで届く波打つ雲によって滑らかで輝きがなかった。

 色彩が乏しい光景だった。かといって、眩しいほどの南国のビーチへ訪れたいなどとも思わないが。

 私を含めた三人で、一艘の薄汚れた舟を浜から海へと押して行く。

 速度に差はあるが、一人でも二人でも舟は押せる。そんな中に三人目が加わったのは意外だった。献身や協力とは程遠い人物だという印象を勝手に抱いていたからだ。

 風の音がよく聞こえた。海岸に人の姿はあったが、遠く離れていたため私たちと交わることはなかった。

 舟が穏やかな海面を切る。今にも海水が染み込んできそうな舟へ乗り込み、私が帆を立てると勝手に進み始めた。

 要はヨットと同じだ。帆の角度で進路を変えられる。加えて、風向きによらず望んだ方向へ進むという現実にない性質があった。便利を通り越して、理想的であるとすら思える。

 方向転換のやり方は簡単だ。自分の手に持ったコントローラーを用いて帆に結ばれた縄を引くようにすればよい。

 縄とか、帆とか、風、海。それらの要素が意図されて写実的ではない世界で、自分の肉体を駆使する滑稽さは、不思議と心地よい。私がこの世界に居続ける理由でもある。

「名前で呼んでいいかね」

 私ともう一人が、そう尋ねた者を見た。

 どんな名前で呼ばれようと、私は構わなかった。視線を、問いかけられたもう一人へ向ける。目つきが鋭く黒目が極端に小さい短髪の女へと。

「俺は構いませんよ。別にどう呼ばれようと……」

 彼は彼女の姿で、言葉を続けるでもなく、肩をすくめた。

「この人は本名で呼ぶつもりですよ」

「へぇ……」

 さっき知り合ったばかりの人間が、自分の本名を知っていることは、驚きでもないらしい。

「まぁ、俺のものに限ったことではないでしょうけど、個人情報なんて今時はどこまで拡散しているか分からないものです。本当に守られるのなんて、口座番号くらいで……」

「ええ、私もツチガミさんと同意見です」

「なぜ私が言う前に彼の名前を明かした?」

 不満げな声だった。苦笑するような吐息がこぼれるのを、私の片耳が聞いた。

「君は、嫌ではないのか? 会ったばかりの人間の前で本名を明かされたのだぞ」

「俺は構わないと、言いましたよ。それに、理由はわからないけど、あなたも俺を本名で呼びたがっていたから……」

「確かに。だが、まるで嫌味のような……そんな響きを感じた。私の考え過ぎか?」

「別にそんな意図は……彼女にはなかったでしょう。……ああ、それにあなたの顔は俺と……ナカマチさんの共通の知人によく似ています。どう呼ばれようと、あまり違和感がないというか……」

「そうかね」

 風の音がよく聞こえるようになった。

 会話をキャッチボールに例えるなら、ボールが突然かき消えてしまったような唐突な静寂だった。

 耐えきれず会話のボールを見つけ出したのは、私だった。

「……私はナカマチ。こちらの方はツチガミさん。では、あなたの名前は? まだ伺っていませんでしたね」

「名前か。ニカイドウ、としておこう。本名と呼べるものは、数字とアルファベットの組み合わせで、あまりにも長すぎる。しかも複数ある」

「……生い立ちが複雑?」

 冗談なのか、本気なのかわからない問いかけだった。

 私は苦笑に似た吐息を両耳で聞いた。

 息が合うとはこのことだろうか。ちがうか。

 海面は穏やかだった。何かが決定されない限りは穏やかなままだろう。

 その何かを揺るがしかねない異様な存在と、私は共にいる。

 それでもまだ、私の気持ちは穏やかだった。

 安らぎではなく、ただ波打つ。


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