第35話 全知内蔵宣言 前編


 朝日を浴びつつ、俺は通信アプリを一度使い、また閉じた。知人へ便りを送っただけだ。相手はつい先日、VRゲームのセッションを共にした人物だった。

 連絡に適した時間帯とはまだ言えないが、祝日でもある。だからと言って許されるわけではないが、敢えて自分のわがままを通すことにした。

 型式の古いスマートフォンが、俺の手から離れ、テーブルの上で死んだ。

 スマートフォンが鳴動を伴って息を吹き返す。返信が極めて早かったのだ。

 画面には受話器のアイコンが表示されていた。

 俺の指は、ためらいがちにアイコンへ触れた。

『おはようございます。コウツさん』

 声質は若い女のそれだったが、そびえ立つ鉄柱が喋っているかのような重厚さがあった。通信品質の問題だと考えることにした。

 俺はナカマチ・キョウコに挨拶を返し、祝日の朝に連絡したことを詫びつつ無難に会話を進めようと――

『先日は失礼しました。ついコウツさんまで撃ってしまいました』

 話が早い。俺が送ったメッセージに、ナカマチの言う『先日』の画像を添付しておいたからでもあるが。

「別に構わない。もし中身が俺だと知っていたら、撃たなかったか?」

『撃ちませんよ。そうだと知っていたなら』

「そうか」

『ええ』

「……俺の隣にいたのは、カトウという人だ。顔なじみだと聞いたが?」

『それは事実とおそらく……少し異なりますね。コウツさんは、そのカトウさんと連絡が取れますか?』

「連絡は、今は出来ない。先日からずっとだ」

 通信アプリ上でのカトウの状態表示は、離席中のままだ。

『では、セキュリティ関係の担当者に報告したほうが良いでしょうね』

 心臓の鼓動が早くなるのを感じた。

 俺はナカマチの言わんとしていることに、薄々は気づいていたからだ。それでも尋ねた。

「理由を聞かせてもらえるか」

『実在しないからです』

 ナカマチの言葉が止まる。答えを出すために、玉子を割るような間があった。そしてナカマチはよりはっきりと話し始めた。

『……ええ、私とコウツさん、二人の共通の知人であるカトウという人物が、実在しないからです』

「俺はハッキングされていた、ということかな……」

『そう考えるのが妥当でしょう。企業の機密情報を奪う目的で、社員個人を狙うことはよくあることだそうです。コウツさんに攻撃を仕掛けるために、縁のある人物の個人情報を周到に調べ上げる……。そして架空の人物を用い、特異な交遊関係を作り出す……。私には、その先にどんなことが起こりえたか、想像しかできませんが……』

 想像か。おそらくは現実だろう。

「そのあとどうなりえたか、よりも、それまでどうしたかを問われる時が多い。まぁ、そっちのほうが多くて当然だ。ああ……しかしこれは、人間業ではないな。以前、話していたが計算生命体とか言ったかな。案外、本当かもしれない」

 人間業ではない――。

 計算生命体――。

 俺はそれらの言葉を、慎重に心の泥濘から引き上げた。

 あり得ない話でもないと、知っているからこそ。

 しかしナカマチの返答は、俺にとってまったく意外なものだった。

「専門的なことはわかりませんが……そういえば、私のそばにバルセロさんがいます。代わりますよ」

 唐突な提案に戸惑う俺を置いて、ナカマチの声が遠ざかる。

 小さくなった声が届いた。

――お忙しいようですが、お電話です。

――なんで朝っぱらに電話なんか掛かってくるんだ。そもそも相手は誰なんだよ。

 ナカマチと同年代であろう女の声が聞こえた。荒々しい口調。天職はスポーツチームの過激なサポーターだろう。

――お知合いですよ。

 そのナカマチの次に聞こえたのは、いかにも社会人らしい角の丸い声だった。俺も倣うことにした。

『はい、カトウです』

「コウツです」

『えーと……』

「バルセロ、と呼んだほうがよいでしょうか?」

 お互いとも言葉が出てこない。人間には情報の処理のための時間が必要だ。もちろん可能なら俺もそうしたかった。

 ナカマチはカトウという人物は存在しないと言った。しかしカトウは今そこにいる。

 しかもカトウは俺が二度殺したバルセロでもあるらしい。

『お電話代わりました。ナカマチです』

 停滞を破って再び現れたナカマチの声は、明らかに楽し気だった。

 やはりこいつは信用ならん。まさに女狐だ。

 俺は何とも言い難い感情の噴出をこらえた。

――サシドリ、あのバカ姉弟がいねぇぞ!?

 カトウ、あるいはバルセロの荒々しい声が届く。

 おそらくは、女狐の笑みをすり抜けて。

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