第34話 砂丘の蜜


 曇り空、波の音がした。

 灰色の海岸に打ち寄せる波の姿は、まだ私の視界に入らない。隆起した砂浜の長いこと。まるでそれ自体が地平線であるかのようだった。

 私が向かっていた隆起の繋ぎ目に、人影が現れた。

 見覚えのある顔だった。つい先日、私の目の前で背後から頭部を撃たれた人物だった。

「やあ」

 片手を上げて、陽気な挨拶をされた。

「どうも」

 私は陰気に返した。

「話せるかね」

「私が、この先での用事を済ませた後なら」

「戻ってくるかね」

「相手があなただから、戻ってきます」

「戻ってくるかね」

「ええ。戻ってきます」

「ええ。戻ってきます」

 同じ言葉を、同じ調子で返された。私は「ええ。戻ってきます」と返した。私は仮想空間の木霊を演じた。

 不毛なやり取りの末、相手が苦笑を浮かべる。

「やはり君は正真正銘、人間だ。フィードバックループなんてイタズラ、どこで覚えた?」

「あれが、そんな名前の行為だとは知りませんでした。今までに誰からもやられたことがなかったのですか?」

「やられた経験ならあるさ。対策をしていなかっただけだ」

 気軽な返答。意外と大胆な性格らしい。

「それより、フィードバックループを知らなかったと言ったが、ではなぜやった?」

「答えを求めるほどの深い謎はありません。まずは、あなたの推理を聞かせてもらえますか。きっとそれが正解ですよ。では」

「おい、どこへ行く。推理を聞くんじゃなかったのか!」

 私は再び砂浜を歩き始める。

 その私を声だけが追いかけてきた。

「……他にいたんだろう! 知恵を貸し与える人間が、君の背後にいたはずだ!」

 声を背に受け、目を前へ向ける。

 目の前には、やはり地平線ほどの隆起が続いていた。これまでよりは傾斜がなだらかだったので、私はこれを越えることを選んだ。

 最後に振り向き、告げた。

「きっとそれが正解ですよ」

「正解だと! その言葉だけでは足りない! 足りないのだ! 聞いてくれ、メヅ! 私が抱く恐れと、未来のことを! 私が一個の生命である証明と、故に抱いた恐れを! メヅよ――」

「ああ、私に話したいことが……それほどに強い思いであるのなら、あなたがしたい私への話とは……そう、いつでも変わりないのではありませんか?」

 沈黙。私の聴覚が風と波の音で満たされる。私をメヅと呼んだ者は、この沈黙が己の心情を表す言葉として最適と判断したのだろう。

 そして私は歩みを取り戻した。もう声はない。

 知らぬ者から受けた愛の告白を断れば、こんな気分だろうか。それは随分と、自己愛が過ぎる考察と言えた。

「だから、また戻ってきますよ」

 私の代わりに木霊を演じてくれる者は、この場にはもう誰もいなかった。

 砂の隆起――砂丘の果ては、曇り空まで続いていそうだった。

 また戻る。また会う。そして話をする。そうした事柄を、今後の予定へ組み込む。

 しかし、私の予定は大きく狂った。

「ああ! あいつの弟だって感じる!」

 そんな怒鳴り声が聞こえたからだ。

 廊下――いや食堂か。タバコの臭いが急に鼻につく。私の記憶から呼び起こされたものではなく、今まさに漂っている紫煙の残り香だった希薄な残骸。

 VRヘッドセットのコントローラーを机に置こうとすると、ビールの空き缶を倒してしまった。おそらく、空き缶のはずだが、自信がない。

 どれも昨晩、突然訪れたカトウさんが由来のものばかりだ。

 酔って私のベッドで眠っていたと思ったが、起床して騒動の火種となったらしい。いや、火種といえばもっと危険な存在があったか。判断、思考の鈍化。私へ与えられたアルコールの呪いは、まだ効力が残っていたらしい。

 一瞬、一瞬であってほしいが、私はどうするか悩み、固まった。

 例えるなら、今の私は三つの影に覆われている。それぞれの影が誰であるかは置こう。影は何かをするわけではなく、ただそこにいて、私の予定を変え、焦らせるだけだ。それらを捌くというのは、忙しいというものだ。

 立ちあがり、部屋の扉へ向かうと、スマートフォンが鳴った。

 画面には『コウツ・レン』との表示が――。

 これが、これが忙しいというものだ。

 私は心の中で、あの名も知らぬ者へ助けを求めた。

 そして私は扉を開けて出ていった。

 呼びかけなど、無意味だとわかっていたので。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る