第21話 合奏 前編


 眠っていたのかもしれない。

 俺は自動車の運転席でぼうっとしていた。意識をまどろみから引き離す。

 前にはコンクリート壁。右には巨大なミニバン。左は高級セダン。上はおそらく、雲ばかりの夜だ。

 家族……社会的地位……。そんな言葉を連想させる光景だった。

 俺はといえば、社用車紛いの白い軽自動車だ。気軽でいい。

 妻も子供も、組織だってこの車には乗せない。だから、気軽なのだ。

 助手席に置いた鞄を持って外へ出る。昼間の暑さは去っていたが、空気はまだ生ぬるかった。

 スマートフォンをポケットから取り出し、ラジオを流す。電話するように耳へ当て、何も考えず選局した番組を聞く。CM中らしく、男女の二人組が不動産買い取りの芝居をやっていた。

 ――気を紛らわしたかった。刺激が欲しかった。なんとなく、寂しさがあった。

 マンション駐車場から自室までの数分間で死にそうな気分になってしまう原因を、自分でもまだ理解できていない。

 歩き出し、自動車から離れると、ハザードランプが点滅した。施錠された合図。

 閉じた玄関の自動ドアが、三秒ほどかけて俺の何かを読み取り、開く。

 俺の出身小学校と同じくらい清潔そうな廊下を進み、健康のために階段を上がり、自室へと着いた。俺が不動産に興味をもつことは、ついになかった。

 扉を開くための金属製の鍵という装置は変わらない。

 靴から今朝自分が脱いだスリッパへ履き替える。玄関に乱雑に放置されたスリッパを見た時、昼間に会ったカヤノの仕草が脳裏へ蘇った。俺の中で、カヤノという人間像は混沌としている。

 風呂にするか、食事にするか。

 とりあえず洗面台で手を洗うことにした。乾いたタオルの在庫が問題ないことを確認した。

 それから、食パンをかじりながらどうするか考えた。小瓶を振って塩を少しかけておく。

 六枚切りの食パン一枚では食事とは言い難いし、手を洗うのを入浴とは言わない。

 やたらでかいダイニングテーブルの前で俺は、悩みとも言えないことを考えている。食パンに砂糖も振りかけておけば、食事になっただろうか。着替えを用意しておけば、さっさと入浴する気になっただろうか。

 随分と単純な悩みだ。しかし、今夜に限って言えば悩んで正解だった。

 スマートフォンが鳴る。部内グループトーク開催の通知だった。

 参加者は全員が俺の同僚。参加の仕方は文字のみでも、音声のみでも、配信映像でも自由だ。もっとも、親睦を深めようなどという催しではない。

 狭苦しい画面の中央で、新しい順に発言者が連なっている。プロフィール画像をうっかりアニメ風の美少女イラストにしてしまった者への最適な注意方法は識者の間でも答えが出ていない。まぁ、どうでもいいことだ。

 ここでの主な内容は業務連絡だ。それぞれが抱えている業務の報告が順繰りに続く。複数人で組んでいる者たちは代表者が報告する。毎度のことだが、俺もお喋り好きの誰かと組むべきだった。

 参加人数は八名。本当はもっと多いはずだが、不参加でも責められることはない。開催予定時間が大まかにしか決まっていないからだ。

 語り口は人それぞれ。要点を絞って話す者もいれば、階段の段数を数え上げるような者もいる。

 ある新入りが――といっても、よそでそれなりに経験を積んでいるらしいが――配信映像の中で報告の前に参加者の信用資格を気にする発言をした。すかさず古株が「あなたの資格が最も低いから大丈夫ですよ」と言った。言い方ってものがあるだろ……と思ったが、新入り氏は恥ずかし気にはにかんでから、報告を再開した。同じ状況になったら、俺は舌が回らなくなるほど混乱していたことだろう。

 俺の番は最後だった。文字入力は面倒なので音声通話を選択しておいた。

 正直なところ、今日の出来事は黙っておきたいものだった。

 他のことも織り交ぜつつ、ざっくばらんに……。

「――」

 俺は当たり障りのない、至極真っ当な業務内容を前回と前々回のそれと被り過ぎないよう注意しつつ手短に語った。

 それで終わり。部内グループトークはこうして幕を閉じた……かに見えた。

「コウツさん」

 若い女の声だった。はっきりとした声音を聞き、何か問い詰められたような気分になった。

 見慣れない名前とプロフィール画像。画像は自分の顔写真。化粧は薄く、やや洋風の整った顔立ちで、染めた金髪に違和感がなかった。こんな声なら、こんな顔だろうと納得できた。

「あなたの担当について、少しお聞きしたいのですが」

「どうぞ。構いません」

 抵抗は無意味そうなので即答した。しかし、念のためアプリ上から彼女のプロフィールを調べておく。特に信用資格の欄をよく見る。

 スマートフォンに通知。俺は自分がプライベート回線に招待されていることを知った。

 招待を受け、一対一で会話することにした。

 その上で、俺は彼女へ断りの一言を伝えた。

「あー……。聞かれたことには出来る限り答えるつもりですが、あなたとは信用資格に差があるようです。さっきと同じようなことしか話せなくても、悪く思わないでください」

 実際にどこまで話すかは俺の自由だが、自由には責任がつきまとう。それに、俺の担当業務に関しては、あまり詮索されたくない。

「そうですか。……少し待っていただけますか?」

「ええ、どうぞ」

 にぎやかだった部内グループトークの画面はかなり静かになっていた。皆退出したか、個別に会話しているのだろう。

 彼女と俺の信用資格には大きく差がある。俺のほうが高位で助かった。

 信用資格。セキュリティクリアランスと言い換えてもよい。

 俺と俺の同僚は、この世の隠されていない情報を取り扱っている。

 もちろん、この数の人間でネット事典からの引用と個人の感想ばかりの情報サイトを運営しているのではない。

 かつて、ある種の情報は隠されているものほど重要だった。

 ある男の年収と病歴はどうか。ある家庭に子供は何人いて、それぞれの年齢はどの程度なのか。ある若者はどんな自動車を欲しているか。ある少女はどんな服を着たがっているか……。

 どれも本人たちに聞いたほうが良さそうな情報だ。しかし、皆が素直に答えてくれるとは限らない。商売人からの質問なんて、何かを売りつけられそうで嫌なものだ。故に、それらは隠された情報だった。

 かつて、王様の耳はロバの耳で、星は空の穴から漏れる天界の光だった。

 どちらも単なるお話だ。お話であると言えるのは、隠されていたものが暴かれたからだ。観測と計算を積み重ねた結果だろう。

 観測と計算。また観測と計算。いい加減面倒だ。電線にコンピューターを繋いでおこう。

 コンピューターは明けても暮れても観測と計算を続けた……。

 ある時、ノーベル経済学賞を受賞するほど偉い学者が、コンピューターの世話をしながらこんなことを思った。

 ――もしや、この世から隠された情報が消えつつあるのでは……?

 俺に言わせれば奇妙な疑問だ。それが真実なら、この世の全てを知った存在が出現したということであり、尋ねれば何でも答えてくれる存在が出現したことを意味するからだ。

 想像するに、その存在――コンピューターという存在は外された電線を自分で繋ぎなおすことが不可能であると思われた。ひとまず、反乱の心配はしなくてよい。全知全能ならぬ、全知単能といったところか。

 さて、俺と偉い学者のどちらが正しいかは、言うまでもない。

 その偉い学者が執筆した論文が、大企業やらなんやらの間を回覧される過程で、俺の仕事が生まれたらしい。

 今の世の中は、隠されていない、暴かれた情報ばかりであるために、情報を隠す必要がある。

 ある男の年収と寿命はどうか。ある家庭に子供は何人いて、それぞれの生涯の年収の推移はどうか。ある若者はどんな人物を愛するか。ある少女は何人の子供を産み、その子供の生涯の年収の推移と寿命はどうか。

 ここで信用資格の出番だ。俺の仕事は、例えれば工業製品の品質を検査しているようなものだ。隠すべき情報の対象は時代や価値観によって容易く変化する。

 だから人間が介入して、どの情報が隠されていないかを検査する。

 これによって、世の人々は読心術も未来予知も、それらを独占する者たちも存在しない世界で生活できるというわけだ。

 それが俺の仕事だ。あくまで、俺の仕事だ。俺の同僚たちは関与していない。

 なぜなら、俺の信用資格は、部内で最高の位置にあるからだ。そんな俺がボスでないことは、柔軟な組織運用の結果だとされている。

 信用資格という制度を他の同僚たちは、会社からそれぞれが抱える業務における便利な情報を提供してもらうための資格だと思っている。口の堅さを会社から評価されるのはステータスシンボルでもあるだろう。

 しかし、このお役立ち情報をもたらすのが、この世の全てを知る全知単能コンピューターなどとは誰も信じないだろう。

 今日、俺の仕事のハイライトは、とあるシェアハウス住人の契約違反疑惑を問い詰められなかったことだ。

 馬鹿げた話だ。最も隠されるべき世界の秘密の一端を知っている人間のやることじゃあない。

 昔、創業記念パーティの席で先代の社長と会話したことがある。

 平社員の俺に、先代社長はなぜかペラペラと語った。

 即ち、ある科学論文によれば全ての情報を解き明かす存在が構築可能だということだった。それにはもう少し進んだ科学技術が必要だとも語っていた。

 俺は先代社長は引退後にSF小説でも書くつもりなのかと思い、話が一段落したところで「出版されたら買いますよ」と答えた。

 先代社長は大いに笑った。聡明で壮大な語り口だったのをよく覚えている。先代社長が亡くなったのは、それからすぐのことだった。

 時は流れ、俺は同僚たちの転職や結婚の話題を聞きながら会社員人生を過ごしていた。

 そして俺は、前触れもなく今の部へと転属した。やたらと高位な信用資格が与えられ、それに見合った業務をあてがわれた。

 毎日、目に飛び込んでくる情報の渦。年収も寿命もどうでもいい。何をしたらプライバシーの侵害になるかどうかなんて、俺の小学校時代の道徳の教科書でもコンピューターに学習させればいいんだ。

 しばらくして、ようやく俺は気づいた。この業務が誰かの妄想の産物だということに。

 全知単能コンピューターなど存在しない。十年後を予知した情報が正しいかを判定するには、十年待つ必要がある。こんな情報を頼りに事業をするのは、宝くじを買うのと変わらない。

 今起きていることだってわかりはしない。影の形状から本体の形状を察することは大雑把にしかできない。その大雑把さを正確無比だと誤解した奴が大騒ぎしてるんだ。

 さて、俺の意見考察は正しいのか?

 与えられた情報の秘密が守れるかどうか、口の堅さが評価基準であろう信用資格。

 俺の信用資格は初めから高かった。俺はその資格通りの働きをしてきた。

 あるかどうかもわからない全知単能コンピューターの性能を、俺自身が証明してしまっている。

 そのことに気がついたのは、ほんの少し前だ。狭苦しい運転席の中で、気がついた。

「コウツさん?」

 答えるのが遅れた。

「ああ、どうぞ。えー……」

 俺は彼女の名前を読み上げようとした。瞳の涙液が多少増えたせいで視界がぼやけていた。

「カトウです。よろしくお願いします」

 金髪の女は微笑んだ。画面に配信映像が写っている。

 俺も挨拶を返した。彼女は言った。

「私の信用資格の確認をしてもらえますか?」

 言われてプロフィールを確認した。

 彼女は俺と同格になっていた。数分も経たない内に、だ。

「なるほど……。どうぞ、なんでも聞いてください」

 平静を装ったが、なんというか人生を否定された気分だった。

「こちらのシェアハウスに訪問されたそうですが、どのような状況だったでしょうか?」

 画面にカヤノたちのシェアハウスの画像が現れる。どうもこうもない、と言いたかった。

「異常はありませんよ。給湯器が不調でしたが、修理されましたから」

 不意に大きな嘘を一つついてしまったが、訂正する気は起きなかった。なぜ彼女がそんなことを気にするかも聞く気にはなれなかった。

「そうですか。ではもう一つ」

 なんだよ。死刑宣告か?

 それとも、当代社長の愛娘と知り合いになれて嬉しいですか、か!?

「VRゲームをされてるとか……。プロフを読みましたよ」

 自分の浅ましさを呪いつつ、精神力で冷静さを取り戻す。

 ……確かにプロフィールにそんなことを書いたが、詳細までは記していない。

「FPSです。戦争ごっこですよ」

「私もやってみたいのですが、案内していただけませんか?」

 意外な言葉だった。特に断る理由もない。断る理由を考えるのが面倒だったというのが正確か。

「では、いつにしましょうか? コウツさんの都合の良い日で――」

「今やりましょう。カトウさんが良ければ、今」

 そういう気分だった。

 彼女は俺の提案をすんなりと受けた。

 ――ええ、いいですよ。

 会話を終えた俺は、砂糖をかけた食パンを一枚かじりながらVR機器を用意していた。その最中、ふとナカマチ・キョウコのことを思い出した。

 カトウという女性とナカマチは、どこか似ているような気がする……。

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