第20話 月は空の模様だった
女は紫だった。
紫は古来から神秘を象徴する色だと言う。
しかし、現世の人間が身にまとうなら、大抵は品のない色彩となってしまう。
どうしてそうなるかを理解するには、占い師が使う水晶玉の下に敷いてある物の色を思い浮かべてみればよい。怪しげな開運グッズの類でも構わない。
それらのそばには必ず紫がある。勝手に人間様が超越的な価値を持たせた物体には紫が似合う。
表立って言えることではないが、人間の衣服で紫が似合うのは下着くらいだと考えている。
しかし、何事にも例外がある。
例えば、俺がある男と多少卑猥な話題をしなければならなくなったとしよう。
――先日紫の似合う女性と会いましてね。
加えてこうも言おう。
彼女、紫水晶のようでしてね。ここまで言えば、どんな堅物な男でも必ず耳を傾けてくれるだろう。俺が語る続きは相手によりけり。
その女は紫が良く似合っていた。さらに宝石のようだったといえば、なんとなく凄いと感じるだろう。
俺とカヤノの間に立つサシドリという女は、そう例えるほかない人物だった。
サシドリは耳に当てていたスマートフォンを下ろし、俺たちへこう述べた。
「剃刀と髭剃りって、そんなに違わないみたいですね」
「そうなの? まぁ、作ってる会社が同じだもんね……」
俺とカヤノが話していたのはそんな話題ではないし、カヤノの考察もおかしいだろう――と言いたかったが我慢した。
サシドリが仲裁に入ってくれなければ、俺とカヤノはかなり面倒な事態になっていたのは間違いないからだ。
――お話し中悪いが、俺の話を聞いてくれ。
この一言が言えない。情けない。
「俺、風呂、見てくる」
「私が行きますよ。コウツさんは――」
「いや、いいさ」
エコバッグをテーブルに置いて食堂を去る。カヤノの語調がそれほど険しくなかったことに胸をなで下ろす。情けない。
さっきから情けなさ全開の行動ばかりとっているが、今後の状況を考えればすべてが悪い行動ではない。
俺がいない間に、カヤノとサシドリで上手く口裏を合わせるかもしれない。
食堂から風呂場へ一人向かいながら考える。
――男子滞在禁止。
進入禁止とはしなかったあたり、これを定めた奴は本気だったのだろう。
正直なところ、ここに入居するのは成人ばかりなのだから、まるで学生の女子寮のようなルールなど定める必要性は感じない。
吸血鬼が出没するわけでもなかろう。自室に異性を招かないから何だと言うんだ?
しかし、それは俺がそう思うというだけだ。俺の一存で捻じ曲げるのは違うだろう。
ここで何か問題が起これば、俺の責任が追及される仕組みだ。それでも、逃げる余地くらいは残しておきたい。
俺がいない間に、カヤノとサシドリが完璧な嘘をついてくれると願おう。
いや、本当は俺があの二人にぶつかって解決を図るのが筋なのだろう。
……筋かぁー。
こうして、俺はとうとう風呂場についた。
浅黒い肌の中年サービスマンに一声かける。一声が返ってくる。これが森の小径で浴びる風ほどに心地よい。安全地帯を得た気分だった。
しかし、それも長くはもたない。修理完了を俺と共に確認したサービスマンは、軽やかに去っていった。
……食堂に戻るか。
ここに男が滞在しているのは間違いない。とはいえ、この人口減時代なら異性交遊などは国や自治体が金を出して推奨しても良いくらいだ。
人間、小さな世界より大きな世界を見るべきだ。
それが出来たら苦労はしない。それが出来ていたなら俺は……これ以上はやめておこう。
いよいよ食堂の扉の前に立つ。
先ほどのカヤノは『同居人が尼になるから剃刀(髭剃り)を買った』とのたまっていたが、扉の向こうで本当に剃髪していたらどうしよう。
言い訳のためにそこまでされたら、俺は正気を保てないかもしれない。
躊躇っていても仕方ないので扉を開ける。
途端、優しい湯気を感じた。料理の気配。
「ああ、コウツさん。夕飯、どうです。私、味噌汁を一度ちゃんと作ってみようかなって」
「コウツさん。どうぞ、おかけになって」
サシドリが椅子を奨めてくる。カヤノは湯気の立つ鍋のそばで大根を持っていた。
俺は当然の疑問を口にした。
「夕飯にはまだ早くないか?」
「早く食べて、早く寝ようかなって。それに、最近はもう一人の同居人も帰りが早いので」
「ああ、ナカマチか。……カヤノ、それはなんだ」
「味噌汁に入れる大根です」
「違う。その道具だ」
「ピーラーです」
「髭剃りだろ」
「ピーラーです。ピーラーとして使っているので」
「剃刀だろ」
「髭そ……ピーラーです。サシドリ、これ不良品なのかなあ。切れ味が悪いんだ」
「まぁ、買ったばかリのは意外とね。剃ら……研がないと」
カヤノとサシドリは互いに顔を逸らしている。永久磁石の極性が急に反転したかのようだった。
俺はと言えば、何も言いたくなかった。この家に髭剃りを置くほど長期間滞在できる男がいるのなら、表彰物だ。
思うに、俺が避けていたナカマチこそが、ここで最も常識のある人物だったのではないだろうか。
――去る。ここから。
それが俺の取り得る唯一の選択肢だった。こいつらはおそらく、こんな手段をまだいくつも隠し持っているに違いない。男子滞在禁止がどうとか問い詰められる形勢ではない。この家にいたらおかしくなる。
「せっかくだけど、俺、帰るから……」
「そうですか。あっ、麦茶、せっかくなので新品を……」
再起動したカヤノが冷蔵庫から取り出した麦茶のペットボトルを差し出してくる。よく冷えていた。
「両方、もらうよ」
飲みかけの分も受け取り、俺はこの家を去ることができた。
外に出ると、太陽がいつもより眩しく感じた。日はまだ高い。
ポケットをまさぐり、自動車の鍵の感触を確かめる。
コインパーキングへ向けて歩き出す。なるべく近道を……ではなく明るい道を選ぶ。目に入らずとも、人の気配が欲しかった。
住宅街の路地で少年とすれ違った。高校生のようだが、不思議と落ち着いた雰囲気をまとっていた。女子に好かれるというより、可愛がられるタイプだと、そんな想像をしてしまうのは奇妙なことだった。
すれ違う。少年が顎をなでる。確かめるような、気にするような仕草。年頃なのだろう。
俺と少年は視線すら交えることなく離れていった。
「そういえば、洗面所に髭剃りが置いてあるような気がしたの、なんでだっけかな……」
俺がそうつぶやいた時には、少年はもう大分離れた所を歩いていた。
どうして俺が、わざわざ足を止め、振り向いてまでして、俺が来た道をさかのぼる少年へ目をやったのか。
それもわからなかった。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます