第19話 処刑人形で組まれた椅子


 風のない、妙に暑い日だった。

 塀で囲まれた荒野のような庭に足跡を作るたび、体温が高まっていく錯覚を覚えた。

 原因は人間による環境負荷だ。気候変動の歴史と予測は、現在の地球が自律神経失調症にかかっていることを示している。何世代にも渡って便利で餓えのない暮らしを続けたおかげで、二酸化炭素とメタンガスには当分困らない。それらに温室効果以外の役割があるかどうかは……まぁ、俺の考えることではない。

 住宅の裏手にたどり着く。給湯器をいじくるサービスマンの背中が見えた。開かれた工具箱には液晶画面がついた計器やら大小様々な工具類やらが収まっていた。

 軽く声をかけ、互いに軽く挨拶を交わす。浅黒い肌をした中年の男だった。

 故障内容は『蛇口から湯は出るが、浴槽の自動湯はりが出来ない』というものだ。風呂場の蛇口から浴槽に注げば充分だと庶民派の俺は思ってしまうが、故障なのは事実だ。

 それにしても、給湯器か。原因はどこかのポンプだと想像していたが……所詮は素人の思いつくことだな。

 用が済んだので立ち去ることにした。給湯器や外壁に仕掛けられる盗聴器もあるまい。

 玄関に近づくと、道のほうから甲高いモーター音が聞こえた。一台の電動スクーターが入ってくる。

 茶色と白色の比率がクリームたっぷりの洋菓子のようなこの電動スクーターは、コンパクトな外見から女性層に支持されたモデルだったと記憶している。中身の詰まった青いエコバッグがハンドル下のフックにぶら下がっていた。

 ドライバーのシルエットは背の高い中学生くらいに見えた。キックスタンドが鳴る。フルフェイスのメットを外したドライバーの顔は見知ったものだった。

 カヤノ。下の名はサシャといったか。この住宅――シェアハウスのボスにあたる人物だ。

「お待たせ、コウツさん。入れ違いでしたね」

「なに、数分くらいだ。構わないさ」

 無礼と親密さが混ざった口調。そんなことが可能な声音は、涼しげであり嫌味がなかった。つい余裕ぶった言い方で返してしまったことに、我がことながら苦笑しそうになる。

 「どうぞ」カヤノが麦茶のペットボトルを渡してくる。ボトルには無地の白いタオルが巻かれていた。やや濡れたタオルは飲料も汗をかく証拠だ。これも女子力というものだろうか。

 「頂くよ」年上らしく礼を言うと、カヤノはエコバッグを持って作業員のいる裏手へと向かった。

 俺が二十歳そこそこだった頃は、ペットボトルなど明日にも滅ぼされそうな情勢だった。今でも存在するということは、資源確保もそこまでは追い詰められていないらしい。

 まだ冷たいボトルを握っていると、急に口渇感が襲ってきた。

 さんさんの太陽を浴びながら、一人喉を潤す。麦茶はカフェインが含まれていないので胃腸に優しい。

「久しぶりに来たのに、中は見ないんですか」

 戻ってきたカヤノがそんなことを言う。

 この家の住人と関わるのはあまり気が進まないので忘れていた。同業者ならさっさと入っているのだろうが……。カヤノが家の状態について特に何も言わないということは、実際何もないのだろう。省いてもよい手順な気がする……。

「……忘れたわけじゃない。付添人を待ってたんだ」

「では、どうぞ」

「どうも」

 まあ、これも仕事の一部、と言えばそうだ。そもそも、会社に嘘をつく度胸など俺にはない。

 玄関へ入り、カヤノが用意したスリッパを履く。スリッパは俺が靴を脱ぐ間に、床のペルシャ風マットへ驚くほど優雅に置かれた。物の置き方に美醜が存在するかと問われても自信はない。そう感じた、と言うほかない。

 俺はまたも「どうも」と言った。この調子では、あと何度この言葉を使うか知れない。

 カヤノを先頭にし、一階の廊下、洗面所と見ていく。洗面台の上が多少乱雑な以外に特筆すべき点はない。共同生活の場ならこんなものだろう。

 風呂場をざっと見る。……天井のあれがカビなのか模様なのか分からない。うっすらと人の顔に見えるのはやはりカビか……。

「換気をよくしたほうがいい。乾かしておけば、この天井は多少のカビなら死滅する素材だ」

「ああ、あの顔みたいなカビ? 消えたと思ったらすぐ出てくるから、いつか完全にならないか楽しみにしてるんですよね。多分霊だし」

「……薄くなった時にカビ用洗剤で拭いておけ。きっと成仏する」

「でも覗き魔の霊かもしれないし、望みを叶えてあげたほうが良いかなって。ここって殺人事件とかありました?」

「戦国時代までさかのぼれば、多分な。……覗き魔の霊が覗けるようになったら、ここにもっと執着するようになるんじゃないか?」

「うーん、たしかに」

 無駄話はほどほどにして、廊下に戻ってトイレへ。ここは扉を少しだけ開け、電灯のチェックのみとした。異常なし。

 トイレの扉を開ける際にほんの一瞬だが、伸ばした手でワイヤートラップを探ろうとしてしまった。これがVRゲーム廃人の初期症状か。

 気を取り直して食堂へ向かう。入るなりカヤノが冷蔵庫へエコバッグを丸ごとしまった。

「コウツさん、麦茶預かりましょうか」

 お言葉に甘えて預かってもらう。飲料が冷えるにこしたことはない。ペットボトルに巻きつけていたタオルだけがカヤノから返される。

 このタオル、濡れると気化熱で冷やしてくれるタオルだったのか。手に握っているだけで中々心地よい。いや、事前に濡らしてあったようだ。

 この間にも俺はカヤノに、短いが礼の言葉を繰り返し述べている。年上の威厳は既にない。

 ……見た限り、食堂に目立った汚れや傷はない。当然だが、食器棚や冷蔵庫の裏まで調べることはしない。

 最後は二階。見るのは廊下くらい。トイレのチェックは一階と同じ。ここも異常なし。

「部屋も見ます?」

「いや、いい」

 ふと、決まりのことを思い出す。

「私生活に踏み込むようで悪いが、男は連れ込まないように頼む」

「そりゃあもう。コウツさんと宅配便の方くらいですよ、ここに来るのは」

「そうか」

 何か色々と余計なことを言いそうになったので黙ることにした。

 階段を降りる。もう見る場所はない。ないが……。

「すまん。洗面所をもう一回見ていいか」

「どうぞ」

 なんとなく気になることがあった。カビではない。何か見落としがあったような気がする。

 しかし、実際に見てもはっきりとしない。こんな現象が加齢のせいとは思いたくない。

「……ちょっと冷蔵庫を開けていいか」

「えっ。まぁ、どうぞ」

 ボスの許可がとれたので食堂の冷蔵庫へ向かう。結構喉が乾いている。細かいことは諦めて麦茶を回収して帰ろう。

 さて、冷蔵庫は機種によってどの扉が冷蔵室で冷凍室か異なるが、麦茶を入れたのはこの扉だったか?

 開けた扉から冷気が一斉に漏れ出てくる。

「冷蔵庫くらい、私が開けますよ」

「ん? ああ、悪い。おっさんになるとその辺の感覚が鈍くなってな……」

 年齢を重ねると悪い意味で行動が効率的になってしまうことがある。俺の場合は育ちの悪さもある。一生結婚できそうにないな、俺は。

 悔やんでも仕方ないので麦茶を……この冷蔵庫に飲みかけの麦茶は何本入っているんだ?

「すまん。俺の麦茶ってどれ?」

 どうやら、謝罪の言葉もカウントすべきだったようだ。

 そう思った途端、チャイムが鳴る。修理作業が終わったのかもしれない。カヤノが玄関へ向かう。

「青いやつですよ!」

 去り際にヒントが出される。

 青……青いパッケージのボトル?

 青いエコバッグが目についた。ペットボトルが入っていそうな膨らみの形状という証拠と直観に従って引っ張り出す。

 ……まぁ、正解か。正解なのか?

 カヤノが玄関から戻ってくる。

「作業が終わったそうなので、風呂を見てきます」

 カヤノの手にはサービスマンに渡したのであろうタオルがあった。無地の俺のタオルと違って可愛い熊ちゃん模様だった。なぜかネガティブな感情をわずかに感じた。

「待て、カヤノ」

 俺はカヤノの顔を見た。緊張、だろうか。俺がエコバッグを持っているせいだろう。

「俺は、学校の教師のように根掘り葉掘り聞いたりはしない。だが、これのことは答えてもらう」

 エコバッグからそれを取り出す。おそらく、冷蔵庫に隠してから、更にエコバッグへ二重に隠したつもりであろうその物品を。

「俺には、これが髭剃りに見えるんだ。男用の……」

「剃刀ですよ。女でも使います」

「髭剃りだ。パッケージが完全にそれだ。五枚刃だ。あとシェービングジェルもある」

「剃刀です」

「髭剃りだ」

「同居人の二人が出家して尼になりたいって言ってたので」

「現代に尼がいたとは知らなかった」

「だから剃刀です」

「髭剃りだろ」

「コウツさんは人のことを疑いすぎなんですよ。じゃあ、これをどう使うか私が今から実演しますよ」

「さっきと話が違うぞ」

「だから髭剃りを女が剃刀としてどう使うかを教えてあげますよ。鑑賞料金は胡椒一キロか同じ重さの黄金でいいですよ。ああ、胡椒は取引停止中ですけどね。故障だけに!」

 忘れていた。こいつもナカマチとは違う方向性の面倒くさい奴なのを忘れていた。

 発端は俺だが、ナカマチでも誰でもいいからこいつを止めて欲しいと心底思った。

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