第17話 ソマリア→シエラレオネ
酒が嫌いだった。長い時間、正座すると足が痺れるあの感覚。あれを頭脳で味わうことが、欠かすことのできない文明人の日課だと言われても賛同できない。
自分が消毒用以外のアルコールに親しむことはないと気づいてからも、一口だけ飲むことはあった。
一口とは、舌に乗せる程度か、口を満たすまでか。その時によって異なったが、私が飲むときは他人に勧められて断れない時だ。
ある時、このお酒は甘いからと杯を向けられたことがあった。風邪薬のシロップじゃないんですから――と言って断ろうとしたが、結局は酒のシロップを飲み干すことになった。味はともかく、私は飲むなら風邪薬のシロップでも良かった。
アルコールの作用を嫌っている者に、酒の味の良さを説くのは妙なことだ。良薬口に苦し……薬だから我慢して飲むのだ。その逆はない。甘党に砂糖だけ、辛党に唐辛子だけを配ったなら、皆不満に思うことだろう。酒は百薬の長とも言うが、私には適用されない。
世にある酒の類が、どれも自分の好きの反対だから嫌いなのではなく、理由があって嫌い、避けているということだ。
もっとも、私がそうした酒の席に招かれることはほとんどないのだった。理解ある周囲の人々に感謝すべきか、交遊の狭さを嘆くべきか……。
足音は小雨だった。アスファルトに踏み出した自分の踵で、自分の思考を踏みつけたような気がした。もう数百回は踏みつけている。これで雑念が蘇ることはないだろう。
夜の街を歩く。まだざわめき、騒がしい。歩くのは、帰るためではなく、たどり着くためだ。
ツチガミさんがスマートフォンを見ながら歩き、私はその導きについていった。
私が嫌う酒だが、今なら親しめるかもしれない。そんな浮ついた気分が自分でも不思議だった。
通りへ出る。歩みを止めて視線を遠くへやると、先ほどまでいた商業ビルが見えた。この通りから見るのは二度目だ。
遭難したかもしれない。入るべき店を決められないのを遭難と呼ぶかはわからないが。
こうなる前に、ウリヤくんは私が乗ってきた電動スクーターで先に帰ってもらっていた。かろうじて大の大人二人の醜態をさらさずに済んだというわけだ。帰宅の連絡はまだないが、それを求めたわけでもない。
「あの……すいません、決められなくって……」
「構いません。どこも混んでいるようですね」
強引に捻り出した二言目は嘘に近い。二人分の席くらいはどの店でも確保できただろう。あなたの責任ではないと言いたいがための言葉だった。
「ウリヤと三人のほうが決めやすかったかな……」
真意を図りかねる発言に、私は返事ができなかった。未成年者がいると入れる店が限定されるから決めやすいという理由なのか、男友達がいると気楽だからどの店でも入れたという理由なのか。どんな理由でも、不満を感じる予感があった。
それが、ひどく嫌だった。自分がまるでお姫様となった錯覚に陥っていたのを認めるのが嫌だった。夢とは、目覚めるからこそ夢なのであり、そうでないものは現実と言うのだ。
ツチガミさんが私を見ていた。私へと振り向いた身体は、色が少しずつ異なる光に挟まれていた。
私が立ち止まっていたのはごく短い時間だと思ったが、ツチガミさんとは随分と距離が離れていた。
私は歩み寄ってきたツチガミさんへ話しかけた。
「……考えてみると、外に出る必要はありませんでしたね。あそこはまあまあ便利な場所でした」
「じゃあ、戻ります?」
「戻りましょう」
決定まではスムーズだった。
私の横をツチガミさんが通り、歩いてゆく。私が先に動かなかったのは、それが別離の合図になりそうだったからだ。
まだ酒が飲みたいか?
飲み交わす相手がいたなら、そうするさ。
エントランスに二人で入る。シャッターの閉じたエリアがわずかにあった。
エレベータ―に二人で入る。壁の鏡を見て、私は自分の髪を撫でつけた。
スイッチのパネルへ伸びかけたツチガミさんの指が止まる。
「あー……どこへ行きましょうか?」
「三階でお願いします」
スイッチが一つ点灯し、扉が閉じる。血液が頭から落ちる感覚。
「ツチガミさんは、あのゲームは長いのですか」
「……たしか、比叡山の名前が変わる少し前だったと思います」
「それなら、私が始めたのはそのすぐ後ですね」
「そうなんですか。あの山の名前、いつも思い出しづらくて……」
「今はシタン山でしょうか」
「そう、シタン山。……なぜあんな変更をしたんですかね」
実在の地名が突然変更された理由は今でも不明だ。
何らかの抗議に対応したのを隠すために、すべての地名を変更したという推測が主流となっている。
申し入れられた事実を隠さねばならない類の抗議。出どころは政治家、裏社会、宗教団体、あるいは皇室……。
単なる噂だ。情報の点を好き勝手に結び付けているに過ぎない。
事実はどうあれ、プレイすること自体にはあまり関係がない変更だった。ただ、この一件を境に『謎めいた運営』という印象がプレイヤーの間で大きくなっていった……と、ネットメディアは伝えている。
「……あのゲームはファンタジー色が強いので、私は今の地名が合っているように感じます。以前の世界を知らないから、そう感じるのかもしれませんが」
「いえ、俺も……もう少し後に始めていたら、違和感はなかったかもしれません」
エレベーターの扉が開く。先に出たのは私だった。
ツチガミさんと歩調が合う。私はそれまでよりも歩幅を縮めて歩いていたのだが。
「……まだ慣れませんか」
「ええ。行ったことのある場所でしたから。VRで見覚えのある風景を見るのは、なんというか驚きがありましたよ。……ああ、父親の実家が琵琶湖のそばなので、何度か行ったことがあるんです。夏休みとか、そういう時に……」
「私は両親も親戚も、この辺りの人ばかりでしたから、夏休みでも遠出した記憶はあまりないですね」
「じゃあ、あのVRゲームが本当に別世界みたいに感じられるわけですね?」
「そう……なりますね」
ツチガミさんの言葉に、私はある種の驚きのようなものを感じた。別に、不幸な少女時代だったのではない。偶然の出来事が、何もかもをひっくり返してしまうような驚き。
悪い気持ちではなかった。
足が止まる。感激を伝えようとしたからではなく、目的地についたからだ。
「ゲームセンター……ですか」
「ええ。ここには、あのゲームと連動している別のゲームがありました。一度やってみたかったのです」
「たしか……アバター同士で対戦できるやつでしたっけ」
「そうです。まぁ、こういう機会でもなければ、私はできないでしょうから」
目的のゲームの筐体へ向かう。
途中で見覚えのある後ろ姿を見つけた。初心者向けデジタルカードゲームの筐体にかじりつき、金髪が目立つその姿。近づけばタバコ臭いが麗しい顔を見られることだろう。
私はカトウさんを無視することにした。
逆の立場ならカトウさんもそうしたはずだ。
「あっ、カトウさん。ここにいたんですか」
ここまで来て、この人は何のつもりだろうか。
「今ナカマチさんとゲームをしようかって話をしてて……えっ、その札を捨てちゃうんですか――」
椅子が半回転する。顔に現れているのは、不満げな怒りの表情だった。
「何なの! お前!」
おそらく三人の中では異なる『何なの』があることだろう。
その感情、あるいは疑問がそれぞれに何をもたらし、この場にどんな結果を生じさせるか。
私が抱くのはただ一つ。
即ち、別離の予感だった。
最初に食堂に来たのはカヤノさんだった。
「おはよう、ナカマチちゃん。ほう、朝食は和洋折衷ですか」
「ハムエッグお待ち~、キュウリの浅漬けお待ち~」
サシドリさんはもう少し早くに起きてきていた。
「ありがとよ。おっと、インスタントじゃない味噌汁まで参戦! なぜ!?」
「昨日、帰る途中に色々と買ってきました。調理の準備を夜のうちにしておいたのです」
「まったく、またお嫁さんレースで差をつけられちゃったよ……。優勝商品はうちの弟でいいかい」
「えっ、俺? ……おはようございます」
カヤノさんの軽口を受けて入ってきたのはウリヤくんだった。挨拶が若干固いのはなぜだろうか。私のほうは、ウリヤくんの顔を見るまで本当に帰ってきたか少し不安だった。
一日を通して、こうして全員が揃う時間は短い。それぞれの生活パターンがある以上、食事時がもっとも集まりやすい。
そんな時間もすぐに過ぎる。カヤノさんとウリヤくんは共になって出ていった。この中では二人が一番早く出かける。
私が皿を洗い、サシドリさんが拭き上げていく。
これが終われば、今度は私が出る番だ。
……そういえば、なぜサシドリさんはここにいるのだろうか。大抵の場合、皿は朝に洗い、帰宅後に片づけている。普段なら、サシドリさんも自分の用意か別の家事をこなしているのだが。
「ナカマチちゃん」
「はい?」
「何かあった?」
サシドリさんは手を止め、私にそう尋ねた。
私も手を止め、答えた。
「昨日、友達ができた……ような気がします」
「どんな人?」
雫が私の手からシンクへ垂れた。
タオルを取る。垂れようとする雫を拭い去り、自分の本心を――
「……知り合いでもなく、恋人でもなく、友達になれるという人です」
「うらやましい」
「そうでしょうか」
「だって、他のどの関係でもなくて、ましてや赤の他人にも戻れないのなら、本当の友達ってことにならない?」
シンクの縁に両手をつく。考えようとしても、脳は動いてくれない。
悩む。そうなのだろうか、そうなのだろうかと悩む。
私を悩ませるのは、サシドリさんの言葉なのか、自分の言葉なのか。
完全な答えを用意できない以上、不完全な答えを出すほかない。
馬鹿な。昨日不完全な答えを出したから、今日こんなにも悩んでるんじゃないか。
「……それはわかりませんが、自分が望んだことなのは確かです。これからどうなっていくかも、自分が望んで、選んだ結果になると思います」
「それは考えすぎ」
私の答えはあっさりと否定された。答えが不完全だからか、相手がサシドリさんだからかはわからない。
「まっ、足し算でも掛け算でも、数字が二つ以上なければ問題にはできないってわけね」
そうだったかもしれない……。
残念ながら、サシドリさんの言葉を充分に検討する猶予は私に残されていない。
私が出かける時間は、もうすぐなのだから。
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