第16話 悪魔の十字路で寝返りをうつ女


 私とツチガミさんが顔を合わせた日から二週間が経った。

 その場でカヤノさんの弟、ウリヤくんと出くわしたのは想定外。三歳以上の年齢差がありそうなツチガミさんと友人なのは意外だったが、そういうこともあるのだろう。

 そしてしばしの歓談ののち、私たちはごく平和に解散した。

 ……だったら良かったのだが、あいにくと私の手はまだウリヤくんの肩をつかんだままでいる。

 ウリヤくんが首から上だけを私へ向ける。表情は推定笑顔。苦笑いだろうか。

 私も笑みを返す。開いた唇から歯を覗かせる表情。努力はしたが、明らかにひきつった笑みだと自覚できた。

「おごりますよ。どうぞ、椅子に掛けて」

 それだけ言えた。声帯ではなく胃壁から発したような声だった。

 ウリヤくんの両肩をつかみ、手近だった私の席へ座って頂く。

 では、コーヒーでも取ってきます――そんなセリフが喉まで出かかったのを飲み込む。二人だけにすれば、この奇妙な女のことを話し合うにちがいない。そうなれば、高い確率で私へ好ましからぬ属性が付与されることだろう。

 例えば、初対面の『俺』に結婚を迫らんばかりの勢いで詰め寄ってくる女と知り合ってしまった……などだ。それは事実と異なるので訂正の必要がある。

 やはり、慣れないことをすべきではない。別に今日だけ、ほんの数十分だけの交流でも良かったはずだ。金髪で喫煙者の誰かが百の成果を期待していても、十の成果で終わってしまいましたで済む話だ。あるいは、ツチガミさんも同じ考えだった可能性もある。

 何はともあれ、私はカトウさんがいた席へ座った。紅茶のカップを引き寄せ、一口飲む。スリランカの茶畑と日本までのグローバルな物流網を想像させる風味だった。落ち着きのない感想が出るのは、私の感情がそうだからだろう。

 まあ、一人で考え込んでいるばかりでは進展も解決もない。どうであれ、この二人に働きかける必要がある。

「ウリヤくんが来たおかげで、男女のバランスがとれました。もう一人の方が戻ってくれば、ちょうど二対二となります」

 私の視線は紅茶の水面に向けてある。二人の男の表情を伺う気にはなれなかったからだ。

「……冗談です。さっきのやり取りも含めて」

 顔を上げる。二人は多少和らいだ表情になっていた……ように感じた。

 次に口を開いたのは、ツチガミさんだった。

「カトウさん、遅いですね」

「カトウさん?」

「ああ、世話になってる人だよ。たまに会って……自分の状況とかを色々と相談したりしている」

「じゃあ、俺って邪魔でした?」

 私とツチガミさんは異なる語尾で「そんなことはない<です><よ>」と発した。

「あの……どうぞ……」

 ツチガミさんが私へ譲る。関係性を考慮すれば、この人なりの事情を先に説明すべきなのに譲られても困る。

「……私はカトウさんに呼ばれてここに来ました。誰が邪魔とかはありません。言うなれば、あなたのお姉さんと同じく、分け隔てはありません」

「そうですか……。そうなんですかね?」

「そうです。私はあなたに何かの邪魔をされたとは感じていません」

「でも、さっき肩にめちゃくちゃ爪が食い込んで――」

「それは謝ります。すみません。ツチガミさんからお友達と会う約束をしていたと聞いていましたので、あなたがそうかと思って引き止めました。私のせいで、せっかくの機会を損ないたくなかったのです」

「いや、別に今日どうしてもってわけでも……。俺はさっき、もしかしてお二人が割と結構な深い――」

「それに、あなたのお姉さんは相手によって接し方は変えても、常に思いやりのある人です。今日もあなたの帰りが遅いのを心配していました。私もあなたを見つけたら……まあ、あなたは子供扱いのようで嫌がるかもしれませんが、私は一緒に帰るつもりでした」

 沈黙が少しの間だけ。紅茶をもう一口、とはいかないほど少し。

「あの……すいませんっした。ご迷惑かけたみたいで」

 テーブルに手をついて頭を下げられ、一瞬戸惑った。

「構いません。特別なことをしたわけではないので」

 これでどうにか一区切りついたか。

 こう言っては何だが、妙な憶測は言葉の物量で解消するに限るようだ。本当のことを語るからこそ脈絡のない早口でも説得力が生まれるのかもしれない。

 本当のこと――なにか引っかかる言葉。嘘はついていない。本心からのことばかり喋ったはずだ。

 ならば別のところか。嘘か誠かではなく、本心を語る私自身が――。

「ナカマチさん」

 呼びかけによって我へと帰る。不思議なほどにはっきりと聞こえる声だった。

「コーヒーと紅茶ばかりなのもなんですから、どこか別の場所に行きましょうか?」

 積極的な提案をしたのは、意外にもツチガミさんだった。

 声に張りがある。声質はそのままだが、全体の印象もどこか変わったような気がする。

 私が抱いた第一印象は、この人の本質ではなかったのだろうか。

「あっ……ウリヤはもう帰らないとまずいのか? その歳だと外出制限の条例とかあるんじゃないか?」

「もう少しなら平気っす。駅まで歩く時間を考えても許容範囲……いや、やっぱ早めに帰ります」

「気にしなくてもいいさ。ナカマチさんも構わないそうだし」

 たしかに構わない。ただ、またもや私は自分の思いに引っかかっていた。

 無数の問いと答えが頭に渦巻く。

 無数? 問いも答えも一組か二組しかあるまい。

 紅茶の水面にはさざ波ひとつ立っていない。

「少し考えさせて下さい」

 こんなことを言うとは自分でも不可解だった。

「では、三人で帰りましょう」

 不可解な答えだった。

 問いと答えはもう一組が残っている。その問いが何であるかはまだ不明だ。

 紅茶を一口。少しぬるくなっていた。

「三人でですか……。そういえば、カトウさんって、なんだか戻ってきてくれそうにないですよね……」

「そうかもしれませんね。ツチガミさんは電車で来られたのですか」

「えっ? ああ、そうですね……」

 また印象が最初の頃のものに戻ったような気がするが……まあ、いいか。

「では、私とウリヤくんは同居しているので、駅までは三人でということで。駅前なら、お店にも心当たりがあります」

 ツチガミ、という男を見る。ああ、そうか。私が抱くもう一組の問いは、自分の本心が何であるかだった。

 好意とか、愛情とか、そんな類のものの前触れ。戸惑いに近いものが、私の心にあるのではないか、そんな問いだった。

 自分でもよくわからない。わからないなら存在しないのと同じ……?

 それは、嫌かもしれない。どうして存在しないのが嫌なのか、わからない。それゆえに私は引っかかり、新しい問いと答えを求めていた。

 自分が鉛のようになっていくのを感じた。新しい問いと答えなど、自分の中には存在しないのがわかっているからだ。

 ただ、今前方に踏み出さねば、この鉛の肉体は永遠にそのままだろうという不安だけがあった。

 ツチガミ、という男を見る。なぜか顔が赤い。私ではなく、少年のような青年の顔が、だ。

「どう……きょ? お姉さんと二人暮らしじゃ……?」

 私とウリヤくんを交互に指さして、戸惑いの声がか細く発せられる。

 たしかに事情があるとはいえ未成年の男子が実の姉とだけならまだしも、赤の他人の女二人とも生活しているのは不健全な事態と言える。友人であっても、打ち明けないのが賢明だろう。

「いやっ、そうなんですけど……あのー、俺の姉は元々ナカマチさんともう一人の女の人と暮らしていてですね――」

「日本は一夫多妻制じゃねぇよ!?」

「ぐはっ!?」

 いい音がした。背中への張り手だった。

 ツチガミさんのキャラが変わったような気がするが……まあ、いいか。

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