第12話 暗順応



 夜も更けた頃、カトウさんは帰路につき、私はそれを見送ることにした。

 玄関の先までのつもりだった。

 いつの間にか、二人で夜道を歩いていた。

 闇を渡り、白い陸地へ上がる。私とカトウさんは、この渡りを鳥のように繰り返していた。

「カトウさんが、まだ昔と同じだったのは意外でした」

「意外。私が外に出ることを選んだから?」

「あなたはルールが嫌いで、けどそれを破らない人だった。破らないのは、決められたルールの内に限っていましたが」

「ルール。あの頃は……実はルールなんてなかった。私が嫌だったのは期待されること。道徳だか模範だか……」

 そうつぶやくカトウさんは、うつ向いていた。見慣れた顔が影で埋まる。

「私はあなたを……あなたに……」

 次の言葉が喉で絡む。たやすいはずだった言葉。

 少しだけ息を吐く。結局は、カトウさんに対して私は正直であることを選んだ。

「甘えていましたよ。姉だと……思っていました」

「そうか。……ああ、私にも似た思いはあったよ」

 言葉が続くことはなかった。

 二つの足音が響く。ここからは見えず触れえぬ車道、自動車の列が途切れないことを耳で知る。

 この騒がしさ、急に足音が一つか八つくらい増えたとしても不思議はない。曲がりくねった土地に建つ家々に、どれほどの人の営みがあることか。

 それでも、夜は何もかもを密やかにしてしまい、電灯に太陽の本質は宿っていない。

 だから、こうして会話ができる。

「あの頃のあなたが本当に嫌いだったのは、ルールでしたか」

「お前はどうなんだよ、ナカマチ」

「私は半分です」

「私も半分だよ」

 半分。私とカトウさんの半分が合わさって一つになることはない。ならば、欠けたもう半分は夜の影そのものに違いない。

 カトウさんが顔を上げる。街灯があった。

 影が滑るように顔から落ちると、カトウさんの微笑みがあらわになった。ずっと、その笑みを浮かべていたのだろうか。

「こっちから言わせてもらえば、お前らが変わらないことに驚くよ」

「暮らしの環境は、以前と同じですから――」

「じゃあ、変わったのはやっぱり私か?」

 分かれ道。白いガードレールが道を歩道と車道に分ける。街灯と信号機はまぶしくて、自販機の列は輝き、車道は光に加えてやかましく、夜は弱々しかった。

 カトウさんは片手を私へあげて歩んでいく。

 別れの挨拶だった。歩調を合わせることはもうない。私とカトウさんは離れていく。

「カトウさん」

「なんだよ」

「次に来るときは、連絡してからにして下さい」

「ああ、そうするわ」

 また別れを、お互いにして、私たち二人は別々の帰路へ。



 家。外から見ると、食堂などの一部を除いてどの部屋の明かりもついていない。カヤノさんもサシドリさんも食堂にいるのだろうか。

 玄関を開ける。スリッパに履き替えて廊下を進む。

 食堂の明かりが扉の磨りガラスから透けていた。

 その時、太腿の片方がぶるぶると震えだした。筋肉痙攣ではない。スマートフォンの振動である。

 スマートフォンを確かめると、カトウさんから音声通話の呼び出しだった。

 私はその場で通話を受けず、自分の部屋へ向かうことにした。繊細な話題になるかもしれないという予感がしたからだ。その予感の裏に、カトウさんが私を頼ってくれたらという奇妙な願望がわずかでもなかったとは言い切れない。

 早足で自室に戻り、ずっと震え続けた受話器のアイコンに触れる。

「カトウさん――」

「アカシ天守閣の天馬像で待つ。今からでどうだ?」

 ――ええ、いいですとも。

 そう答えたような気がする。

 冷却ファンがうなる。青く輝くLEDが部屋の影を照らした。

 いつPCを起動したのか。自分でもわからなかった。状況を見る限り、PCのOSが反乱を起こしたと考えるのが自然だろう。

 机の上に置いたままのVRヘッドセットを見る。

 アカシ天守閣の天馬像。現実には存在しそうにない待ち合わせ場所だ。

 さっきのカトウさんの言葉……VRゲーム廃人などという怪談を彷彿させるセリフだった。まぁ、VRゲームに限らず、カトウさんが廃人になるほどコンピューターゲームへ熱中する姿は想像しにくいのだが。

 クローゼットから薄手の上着を取り出す。手に取ったのはモスグリーン色のジャケット。着ているシャツがピンク色なので、正面から他人に見られたら果物と間違えられるだろう。袖に腕を通し、ファスナーを鎖骨まで上げる。

 腰ポケットにスマートフォンを――念のため、無地の裏面をなぞってステータスバーの光彩を出現させた。充電の必要はなかった。今度こそスマートフォンをしまってポケットのファスナーを閉じる。

 持ち物はこれだけか。その事実になんとなく不安を覚えてしまう。物質文明に浸りきった人間の宿命だ。道具を持ち歩く行動こそがヒトとサルを分けたと言うが、未来では異なる捉え方をされるかもしれない。

 最後に私はPCへ近づき、固いスイッチを押して電源を落とした。 

 アカシ天守閣――現実に存在する場所だ。

 五階建ての商業ビル。二階の創作和食店がアカシ天守閣を名乗っている。最上階でもないのに『天守閣』とは思い切ったネーミングだと思う。

 天馬像とはそのビルの二階にあるオブジェだ。

 二階になにがあるか。

 ゲームセンターである。

 静かな廊下を通って、玄関へ。

 玄関の下駄箱の中へ収納されていた電動スクーターを取り出す。充電ランプは緑色に輝き、満充電を宣言していた。

 スクーターを使う旨を、スマートフォンからカヤノさんとサシドリさんへメッセージを送る。

 メッセージに返事か、既読マークがつくのを立ちながら待つ。

 夜中に使う予定はないだろうが、礼儀は必要だ。

 スマートフォンを見る。変化無し。この時、ようやく自分が少し慌てていると気づいた。

 食堂の扉が開き、薄暗い廊下を光が切り裂いた。

「どぉこ行くんだよ……ナカマチちゃんよぉ……」

 カヤノさんだった。声の調子が怪談の幽霊じみていた。

「少し出かけます。帰りが何時になるかはわかりません」

「そうか……。もしかしたら、ウリヤを迎えに行くのにスクーターを使うかもなーってね。ああ、もちろんナカマチちゃんの用事を優先していいよ。あいつも男だし、自分でなんとか出来るだろうからね」

「私に連絡してもらえれば、ウリヤ君を迎えに行くくらいはしますよ。私の用事は、いつでも抜けられる程度のものですから」

 その程度の用事、か。そうではないが、必要なら抜ける覚悟をするだけだ。

 さっきまで調子よく語っていたゲームでの出来事と、今の自分が重なる。

「いや、そこまでうちの弟に気を使わなくてもいいって。まぁ、姉としてはちょっと心配だけどね。あいつ、連絡も返事もないから……」

「このスクーターで二人乗りは不可能ですが、出来ることはします。社会人として可能な範囲で」

 カヤノさんは無言で、何とも言えない恥ずかしそうな仕草をした。

 美少女度が高まったが、それは一瞬のことだった。

「……ところでナカマチちゃん。サシドリには黙っといてやる。おばさんにだけは正直に言うてごらんよ……」

 カヤノさんは私へ距離を詰めてきた。

 少し楽しい。

「あれじゃろ、あれじゃろ、男とデートなんじゃろ?」

「デートです。女と」

「かーっ、成人指定だねぇ! えっ、女と? サシドリ、サシドリー! ナカマチちゃんがなんかこの家にいたらいけない感じの人だったー! 掃除も風呂も食事も共同生活二十四時間が桃色ピンク気分だったんだー! サシドリ……いねぇ! あいつ、部屋に戻りやがったな!? サシドリ……部屋じゃなくてご不浄かよ!? ……いや、どこにもいねぇぞ!? ……もう機織りとか見ないから出てきておくれよー!」

「あんただけだよ~。ナカマチちゃんのこと知らなかったの~」

「えっ、サシドリ!? どこ!? どこなの!?」

「お前の後ろだよ~」

「いたのかよ!? 泣くところだったよ~」

「ふふ、可愛い小鳥のヒナちゃん……」

 桃色ピンク気分なのは誰なんだか。

 私はスクーターを押して玄関を出た。

 電動スクーターか。こんな夜に二十X歳がまたがる乗り物としては不格好かもしれない。

 エンジンをかけて夜道を走り出す。

 モーターのコイルは中々暖まらない。

 安物なので。

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