第10話 仮想武者 中編
決して安い買い物ではなかった。
それでも私は、たった今自分が購入しようとしているゲームについて、それほど深くは知ろうとしなかった。
知ることは簡単だ。莫大な資金と時間と空想を編み込んで作り出した複雑な世界も、どこかの誰かたちが競うように文章や動画で説明してくれている。その拙速さときたら、一分一秒を争うほどだ。
特に動画は便利だ。視界の隅に長方形の画面を置いておくと、勝手に知識が増えていく。私が注意すべきなのは加算されるデータ通信量の値だけだ。定額かつ通信量に上限なしの契約なので、爪の伸び方へ向けるほどの注意で済む。
知るための便利な手段があっても、それに頼りきりになりたくはなかった。私にとって、その手段とやらは知るというよりも、教えられるという感覚に近かったからだ。
ある意味では、知らなかったことを知る楽しみが希少な世の中だ。
それは贅沢で、人によっては理解不可能な願望かもしれない。
しかし、私はもう学生ではない。テストや受験に備える必要はない。
しかし、社会人ではある。知る、教えられる。そうして今度は立場を逆にして繰り返す。
ゲームの中でくらい、非効率で無責任な、無知という立場に少しくらいは……。
スマートフォンの画面へ触れるだけで購入は滞りなく完了した。子供の頃、貯金を使い果たすほどの買い物をすると、いくらか重くなった鞄に昂る一方で、軽くなった財布に不安を覚えたものだった。
今ではもっぱらキャッシュレス決済なので、そうした感動はない。年齢に比例して、自分で扱える金額が増えたせいもあったろう。
……三人の女が私を見ている。私が話し出すのを待ってくれているのだ。彼女らにこんな話をするつもりはない。
先ほどまで私がカトウさんへ語っていたのは、彼女を引き留めるために、自分の体験から掘り起こしたエピソードに過ぎない。
それに比べれば、退屈だろうから。
時間は週末の深夜、明日は平日。
ゲーム上での多少の損失と引き換えに、現実の都合を優先してもよい頃だった。
この時、即席でパーティを組んだ四人のうち、最初に去ったのは弓持ちのプレイヤーだったと記憶している。
荷駄隊を護衛する私たちは二度の戦闘を経ていた。二度ともゲーム内のNPC、つまりヤブ蚊が襲い掛かってきた程度だった。
三度目の戦闘が始まっていると私が気づいたのは、荷駄隊の一人が倒れたのがきっかけだった。
倒れた男の頭に矢が刺さっているのが見えた。悪趣味なコメディ映画のような光景だった。
プレイヤーである刀持ちの男が駆け寄り、荷駄隊の負傷者を助け起こす。それだけで刺さった矢は消え、負傷者は荷駄隊の隊員として復帰する。私は回復アイテムが必要かと思ったが、インタラクトするだけで充分のようだった。
二の矢はない。敵が現れることもない。荷駄隊は行進を再開した。
視界の隅にチャットのテキストが現れる。
送信者は、私のそばで動かなかった刀持ちの女だった。内容はおおよそこういうものだった。
『敵対的なプレイヤーに攻撃されている』と。
当時、矢でNPCを攻撃できるのはプレイヤーのみであったと、その時はまだ知らなかった。緊迫感という点で、このプレイヤーと私とでは差があったに違いない。
私は弓に持ち替えるか、飛び道具を使うかを悩んだ。
結局は敵の突撃へ備えるため、槍を装備したまま片手に棒手裏剣をつかむことにした。消費アイテムなので、あまり数は持っていない。
未だ二の矢はない。荷駄隊は進む。
目の前に上り坂があった。進行速度が遅くなるのは間違いない。敵が攻撃するならここだろう。
私の予想は当たった。案の定、狙われたのは荷駄隊だけだった。合間をおいて、一人一人倒される。救助の時間をくれてやるとでも言うかのように。
隠れている敵は一人だけかもしれない。それでも、うかつに森へ突入する訳にはいかなかった。それは戦力を荷駄隊から離す行為であり、その隙に攻撃されれば荷駄隊の全滅は確実だったのだから。
荷駄隊は進む。矢が飛ぶ。負傷者を救助する。荷駄隊を進ませる……。
遠くから滝の音が聞こえた。以前は美しいと感じた音色ののどかさに、なぜか腹が立った。
私は先にかけられた言葉を思い出した。敵はプレイヤーであるという言葉。そうであるなら、実に腹立たしい状況だった。そのプレイヤーは、私たちの時間を浪費させ、報酬を目減りさせ、打開しがたい状況にいら立つ心中を想像して楽しんでいるのだ……。
これまでも、弓持ちのプレイヤーが矢で反撃することがあった。
効果はなかった。反撃はすぐ止まり、私もそれに加わることはしなかった。敵の姿は見えず、がさがさと森を進む音が遠くからずっと聞こえるだけだった。
この音から敵の人数を割り出すことは難しい。音が本当に一つだけと断言できるほどの経験は私になく、また複数のプレイヤー同士が密着して歩行している可能性もあった。不穏な音も、今は段々と大きくなる滝の音にかき消されてしまい、完全に不明だ。
矢も無料ではない。その事実が、私が抱く敵の行動へのいら立ちを強める。
現実の時間だけではなく、仮想とはいえゲーム内の通貨まで浪費してこんな退屈なことを続けているのか、と。
私は自分も矢を用意していたことを思い出し、矢筒を一つ取り出した。消費した矢を種類に関係なく補充できるアイテムだ。
しかし、それを渡す前に、テキストチャットに無機質な一文が追加される。
弓持ちのプレイヤーが、このクエストから離脱した表示だった。
時間的な都合だったのか、積極性のないメンバーに嫌気がさしたのかは、今でもわからない。
坂を越えた荷駄隊は、うねる道にさしかかっていた。
滝の音は遠のき、乾いた地面が不協和な足音を鳴らす。
次いで森の暗部から音が私たちを追いかける。
がさがさとだけ。
一本の矢が飛来し、荷駄隊の一人を倒した。
その直後、私の隣にいた女が刀を担ぎ、森へと駆けていった。
敵の位置をどのように把握したのか。ゲーム内のスキルか、高性能な音響装置の賜物か。
理由がなんであれ、事実は一つ。敵の位置を知り、一人で攻撃へ向かったということ。
賭けだ。敵のプレイヤーがたった一人だろうという賭け。最大の不確定要素を自分一人で排除できるという賭け。
後を追おうにも、状況は急変しつつあった。
私の目の前に、山賊が現れる。その数は五人。
私はこれまでと同様に戦いを進めるつもりだった。小技で突撃を阻止し、その繰り返しで体力を削って仕留める。
弓や刀の援護がなければ、戦闘は長引く。それでも、この戦法でも私一人で山賊を倒せるのは確認済みだった。
しかし、硬い。山賊たちの姿形、武装も以前と同じだというのに。
一人当たりに与えた攻撃数が、これまでに倒した山賊の二倍に達しても、山賊は誰一人倒れない。
防御力や体力が強化されているのは明白だった。攻撃力の伸びがどうかを確かめる気は一切ない。
後方から刀で打ち合う甲高い音が鳴り響く。この場に残った刀持ちのプレイヤーが、別の山賊と争っているのだろう。
先頭の山賊へ棒手裏剣を打つ。斧を振り上げていた男は眉間に太い鉄串が刺さり、前のめりに倒れた。
残虐な光景だ。演出したのは他でもなく私。他人に劣らぬ闘争本能が自分にもあったことを自覚させられる。
ようやく一人だ。私の相手は残り四人……槍を横に払い、突撃の波を押しのける。
振り返った私が見たのは、刀で争う二人の姿。
私に背を向けるのはプレイヤーである刀持ちの男。
もう一人には、顔がなかった。正確に言えば、顔はある。
白く大きな歯をむき出しにした口から上がないだけだ。
境目の曖昧な黒い虚無が、半分になった頭蓋骨に溜まっているのが見えた。
その異様な姿に、こんな存在と遭遇しうるゲームだったことを思い出す。
妖人の出現だった。
刀が横なぎに振るわれる。通常の物よりも長い刀身だった。
私は、その間合いにいた。
刀が胸をかすめる。ダメージは受けた。ただちに治療は必要ない程度だ。
男のアバターを選んでおいて良かったと、私は心の中で笑った。
森へと駆けていったプレイヤーの姿を思い出す。未だに死亡通知はない。まだ戦っているのだ。
これまでの経過を思い出す限り、この種のゲームでの経験値が高い人物と察しがついた。
そんな人物から見れば、私は足を引っ張る素人なのだろう。それでも、敢えてこの場を離れる決断をする程度には、私を見込んでくれているのかもしれない。
それは私の勝手な思い込みだが、まぁ、良いほうに考えておくべきだろう。
妖人と切り結んでいたプレイヤーも、私と違って完全回避に成功したらしく、無傷で再び刀を構えている。
作業分担をしよう――そんなことをお互い同時にボイスコマンドで発言した。
妖人が吠える。古めかしい強敵の振る舞い。
どうやら、全員が良い具合に温まってきたらしい。
問題は、コントローラーを振るう私の腕がだいぶ重くなってきた、という点だ。
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