第8話 ぶっ壊れ階級社会
その部屋の湿度は高かった。広くもない空間に、三人の人間が詰めているせいばかりとは言い切れない。
並べられた数種の植物と獣肉。長い紙箱の中には多種多様な薬草の粉末を、おそらく獣脂で固めたであろうものが詰められている。
もう一つの紙箱に詰められているのは、ありふれた植物の粉末からなる膜と、潰した肉を合成し、一つ一つ成型した物。そのすべてが凍結した状態なのは、保存のためである。
予感がした。これから、主張の強い香りが室内を満たすのだろうという予感が。
水が張られた鍋からは湯気が立ち始めている。
禁断の科学実験ではない。料理である。
「サシドリ、それはなんだ」
「カレーの材料です」
「見りゃわかる。こっちはなんだ」
「冷凍シューマイです」
「合わないだろう。カレーとは」
「大丈夫です」
会話が途切れる。沈黙が心地悪い。見ているだけの私ですらそう感じた。
「サシドリ、その妙な喋り方はなんだ」
「ナカマチちゃんの真似です」
急にサシドリさんは私の名前を出した。
「こうしているとカトウさんにデバフがかかって対応が楽なんですよね~」
サシドリさんの指摘にカトウさんがたじろぐ。自覚があればこそだろう。
それにしてもデバフとは……。カトウさんは弱体化するほど、私が苦手なのだろうか。
カトウさんを倒したい訳ではないが、私も会話に加わるべきかもしれない。
そういえば、サシドリさんに聞きたいことがあるのだった。
「サシドリさん、カヤノさんの部屋の鍵を持ってきましたが、これは――」
「おお、それだよ!」
カトウさんが大声を出す。相変わらずよく通る声である。
鍵を要求したのはカトウさんだったらしい。
私は黙ってカトウさんに喋ってもらうことにした。
「今日は何の予定もなくて暇だったから、久しぶりにここへ寄ったらよぉ……臭いがするんだよ。そりゃ、ほぼ一年ぶりだからさぁ、そういう変化をするってこともあると思うぜ。けど……違うんだよなぁ」
「違う、とは?」
「男の臭いだよ!」
この人、いきなり核心をついてきたな。
カトウさんは嗅覚の鋭さがずば抜けている。この才能を最大限に活かせる職業へつかなかったのは、日本国の損失といっても過言ではない。
それにしても、臭いだけでウリヤくんの存在を察知するとは。言われてみれば、私も同じような違和感を感じた覚えはあるが、カトウさんはいくらなんでも嗅覚が鋭敏すぎる。
「……男ですか」
「そう、男だよ。若い男。二十……いや十代かもな」
「スニッファーみたいな推理力ですね」
「名探偵になるほど年寄りじゃない」
年齢の問題なのだろうか。
「で、話を戻すけどよ、その男を誰が連れ込んだかわからなかったんだ。けど、ナカマチと会ってはっきりしたぜ。サシドリにもナカマチにも臭いがついてねぇんだ。ならカヤノだろう!」
先ほど、サシドリさんは私の話し方がカトウさんを弱らせると言った。私も同意見だが、今のカトウさんはあまり弱体化していないような気がする。それだけ感情が高ぶっているということかもしれないが。
……部屋の捜索か。気が進まない。かといって、プライバシーなどの正論をぶつけても、カトウさんを止めるのは難しい。
しかしながら、現在の同居人とOGなら、優先すべきは同居人である。
「段階を踏むべきだと思います」
「段階って、お前な……スマホでポチポチ説教を打てって?」
「はい」
カトウさんからの返事はない。
サシドリさんは完全に存在感を消していた。心の壁が見えた気がした。
「……行くぞ」カトウさんはすたすたと歩いて行ってしまった。
どうやら、サシドリさんからの指摘が、本格的に私への対策をとるきっかけになったらしい。
会話のペースを崩され、合意も取れないのなら、会話自体をしなければよい、ということだ。
なにはともあれ、試合続行である。
私は廊下を歩くカトウさんの背中へ話しかけた。
「仮に、カヤノさんが男を招き入れていたとしても、それはカヤノさん自身の問題ではないでしょうか」
「だったらどうした。問題を起こしそうなら予防してやるのがシスター・フッドってやつだろうが」
たしかに。
そんなわけで、カヤノさんの部屋の前まで来たのだった。
ポケットから鍵を取り出す。
……待て待て。一言で言いくるめられてしまったが、これはやはりまずい気がする。
「ナカマチ、頼むわ」
やはり考え直しては――そんな言葉が喉まで出かかった時に、スマートフォンが鳴った。カトウさんから不自然ではない程度に距離を置き、素早く取り出す。
私の心臓が跳ね、鼓動が早まる。
こういう時にテキストメッセージは困る。画面を見られたらお終いではないか。スリリングなのはゲームだけで充分だ。
『時間稼いで』
メッセージの送り主はサシドリさん。何が言いたいかは察せられる。
――いるのだ。今、この部屋に、ウリヤくんが。
おそらく、カトウさんはとうに感づいている。
始めから、話の運びが強引なのが不思議だった。確信があるから強引だったのだ。
室内の臭いで男を連れ込んだと推理できる人だ。
衣服についた臭いだけで、被疑者を絞れる人だ。
部屋の前に立っただけで、開けずとも中がわかるかもしれない。
いや、カトウさんはもっと強力な証拠を握っている可能性だってある。
この扉を開けてしまえば、事態は確実に厄介な方向へ向かう。
サシドリさんは時間を稼げと言っている。
私がそれを成せば、この事態は解決するのか?
冷静になれ。もっとも適した対応を今ここで編み出すしかない。
頭の中で思考が泥のように積み上がり、湖を作った。怪獣が攻めてくる前に、泥の湖に埋まった魔法の杖を探し当てなければならない。こんなゲームが実在したら不買運動を起こしてやる。
突破口を開け、私。己の次の一言が終わる前に。
「……え~……と……」
我ながら情けない。こんな芝居しかできないとは。
カトウさんの視線が痛い。相性が一方的に悪いという障壁はあるが、本気になったカトウさんに私が抗える可能性はまったくない。
器に注がれた水がひとりでに火を消し止めることはないのである。
電流、走る。
「カヤノさん……帰ってくるみたいですね」
「ほう。じゃあその前に入るか」
食いついた。まずは第一段階。
少し間を置く。考え込んでいるかのように。
「……相談したいことがあります。カヤノさんの件は、本人もいたほうがよいでしょう」
「ナカマチ、後輩の頼みを無視する気はないけどなぁ、順番ってもんがだな――」
カトウさんの行動ターン中だが、ここで攻める。
「正直、気がとがめます」
第二段階は賭けだ。私はカトウさんの良心か正義感のどちらかが、ある方へ傾くことに賭けた。
悪を討つか、悩める者を助けるか。できれば、今は後者へ傾いてほしい。
冷たい汗が背中を伝った。嘘と本心を組み合わせた緊張感と、身内のために身内を騙す罪悪感が、私の身体をネガティブにする。
カトウさんは無言だった。腕を組んで私を――ひるむな、計算を排除し、攻めろ。
攻めの第三段階。
「聞いてもらえるなら、私の部屋へお願いします」
私は振り向き、自室へと歩き出した。
この部屋で話そうぜ、なんて言われる前に、私は行動したのだった。
廊下に足音が響く。私の足音。
カトウさんはついてこない。
無意味だろうけど、ゆっくり歩いた。
焦るな。優勢なのは私だ。
カトウさんからすれば、目的を果たすために鍵が必要で、その鍵を持つ者が離れていく。そんな状況だ。
怒鳴られるかも。金髪でスカジャンの似合う見た目とは裏腹に、そういうことはしない人だ。
安物のスリッパが床を摩擦し、叩く。
もう一つ。もう一つだ。
ついに足音が私の後から一つ続く、続く……。
そんなわけで、カトウさんは私の部屋に来たのだった。
カトウさんへ唯一の椅子を提供し、私はベッドに腰かけた。
「面白い椅子。ゲーミングチェアってやつか?」
「はい。座り心地はどうです」
「うちにも欲しい……かもね」
このまま時間を稼ぐ。事態が打開されるまで。
問題はここからだ。
今すぐ相談したいほど、悩んでいることなんかないのだ。
連れ込んでしまえばこっちのもの、話題なんかなんでもいい……とはいかない。それはカトウさんを裏切ることになる。もう裏切っているが、これ以上は嫌なのだ。
部屋を見回す。何かヒントがあるはず……。
視界に止まったのは、落雷を受けても無事だった我がゲーミングPCだった。
ありふれた百科事典型ではなく、高さの異なる三本の円柱をずらしてつなげた形状だ。風にはためく旗のようにも見える。起動中に発せられる青白い光は昼間でも目立つ。
どう考えてもまともなデザインではないが、性能だけは確かである。
机の上に置かれたVRヘッドセット。カトウさんは興味がなさそうだ。
よし、決めた。
相談に値するほど深刻なゲームでの体験を話そう。
そんなことがあるのか。あるのか……?
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