真昼と片口 2/3
夜が深まった後の空いている時間に寮で過ごす生徒たちは、寮周りの掃除が義務付けられている。学校の掃除の延長線上の作業であるが、場所と役割は定期的に入れ替わるのが慣習だった。
この日の片口の担当は寮の廊下を掃除していたが、運が悪いことにゴミを集積所までもっていく役を引いてしまった。
貧乏くじに当たってしまったのは嘆きたくなるが、さっさと終わらせてしまうのが得策だろうと思いなす。
ゴミ袋を両手に持ち、片口は寮の外へと出ていく。なぜ貧乏くじなのかというと、ゴミの集積所は寮からやや遠い場所にあり、学校の食堂付近にまで向かわなくてはいけない。
往復の距離を考えたら結構な骨を折る作業であり、加えて暗闇に満ちた道は昼間との変わりようも相まって、足を進ませづらい雰囲気を醸し出しているからだ。
片口自身はそういう雰囲気とは無関係だった。一定の歩調で集積場までいくと持っていたゴミ袋を中へと投げ入れる。
袋が中でぶつかる音が片口を通り過ぎて遠くへ逃げていく。その時背後から女性の声が返ってきた。
「きゃあ!」
振り返るとそこには女生徒が居る。昼間にみるセーラー服ではなく、動きやすいラフな服装でサンダル姿の女生徒は、片口を見つけるとばつが悪そうに目を細めた。
「なんだ。音がするとしたら誰かいたのね。驚かせないでよ」
「すみません」
不条理な怒りを向けられた気もするが、言い返すのも億劫なのでそのまますれ違おうとすると、その生徒に腕をつかまれた。
「ちょっと待って、もしかして片口ってあなた?」
「そうですけれど」
「ゴミ捨ての貧乏くじを引いたけれどこれは幸いだったかもね。ちょっと来なさい」
彼女は有無を言わさずその腕をつかんだまま片口を引っ張り始めた。突然のことに戸惑いながら、片口は厄介なことだと直観的に悟っていた。女性であるということからもなおさらだ。もしかしたら真昼に関係あることかもしれない。
ゴミの集積所は食堂の裏手にあったが、女生徒はそこをぐるりと回り、食堂正面に向かうとそこで立ち止まった。
昼間とは信じられないくらいに人気がない。音が溶けるようにしんと静まり返った場所で、ぽつぽつと点灯している照明に思わず寄り添いたくなる。
柱に寄りかかりながら女生徒を間近で見る。
目線の圧力に不釣り合いなくらい小さい生徒だ。真昼も小柄なほうではあるが、彼女もそれに並ぶほどだ。
しかし真昼との違いは顔つきにある。目線や、柳眉や、口元、切りそろえられた前髪は微動だにしていない。
その表情織りなす通り全てにおいてまっすぐで、貫き通す。
頼りになりそうではあるが、片口にとっては苦手とするタイプだ。
ましてや相手が明らかな敵意を向けているならなおさらである。そしてその目線には見覚えがあった。
「もしかして真昼の同室ですか?」
彼女が何かを言う前にこちらから切り出すと、女生徒はちょっと不快に眉をひそませながら首を縦に振った。
「そう。早瀬というの。よく分かったわね」
「この前真昼に出会ったときに見かけましたから」
「朝食の時よね、でもそれで同室だということとはならないのじゃない?」
「別に推理をしていたわけではないです。推測ですよ。真昼への態度がそれに見えただけですから。それと……」
「それと?」
「ここに来てすぐに真昼に世話をかけてくれる人なんて、そういう人しか思いつかなかったからです」
「それよ」
早瀬は片口の前にずいっと詰め寄るとしたからにらみ上げた。彼女が義憤にかられているのをありありと感じていた。
「何がですか?」
「何がじゃないの。とぼけないの。あなたをここに引っ張ってきたのは真昼ちゃんのことよ。いいわね。もうこんな時間だから端的に話すけれど真昼ちゃんを避けるのはどうして?」
「直接そう聞かれるとは思っていませんでした」
「私の性格上なんとなく聞くとかできないの。わかるでしょ?」
「えぇ、まぁ……。なら率直に答えますよ。簡単な話で、真昼には近づかないほうがいいと思っているからです」
「どうして?」
早瀬と言葉を交わしたのは今回が初めてだが、こういう返答が来るのは予想していた。早瀬の表情は片口を責めているわけではない。かといって彼を肯定しているわけでもないのだろう。
問われたことに対する抵抗はない。寧ろそう聞かれることを片口は待っていた。
この疑問に答えないのは簡単だ。けれどその疑問は明確な答えとして表していくべきだと思っていた。
自分がどう考えているのかを、言葉という形にするべきなのだろう。
「それが真昼のメリットになるからです」
「何それ?」
「話すことはそれだけですか?」
早瀬の視線がより鋭くなる。だがそれを隠すように大きく目を閉じた。
「そうね……あなたに聞いてもこれ以上は進展がない気がする。けれど最後に一つだけいい?」
「どうぞ」
「あなたがさっき言ったことは、真昼ちゃんと一緒に決めたことなの?」
答えなど聞く前から分かっているのだろうに……。
「自分だけで決めました」
「そう。なんかあなたと話していると調子が狂うわ。
聞いているのに聞いていないというか、答えているのに答えていないというか、躱されているというか……。
帰るわね。いきなりで悪かったわね」
「いいえ。真昼にあなたがいてくれて僕もよかったと思っています」
そばを通り過ぎようとした早瀬は振り返って、片口を一瞥した。
彼女の横顔は得も言われぬぐにゃりとした表情を作っていた。
「あなた本当にわからないわね。そうやって真昼ちゃんに優しいことは
言えるのにあの子には寄り添わないの?
真昼ちゃんのことはどうでもいいと思っているから、さっきみたいなこと言えるのじゃなくて?」
「それは違いますよ」
「そう……そうね。結局はあなたと真昼ちゃんの問題なのかもしれない。私がいうことではないということもね。でも覚えておいたほうがいいわ」
早瀬の言葉が背中から届いていた。
「すぐそばにいる人がいつまでも同じ場所にいるとは限らないのよ」
遠ざかる早瀬の足音を片口はその場で見送っていた。正真正銘の静寂が片口を待ち構えている。柱に寄りかかりながら上を見上げていると、早瀬が最後に残した言葉が徐々に大きくなっていく。
彼女の言っていることが間違いなく正しいのだろう。片口自身もそう思っている。ずるずると腰を落として座り込むと誰にも言うことなく言葉を漏らした。
「分かっているよ」
そのつぶやきは誰にも聞かれることなく、夜空へと浮かんでいき泡のように消えていく。ここに来てから独り言が多くなっている。
自分の変化をぼんやりと受け止めながら、月がどこまでも片口をほのかに照らしていた。
数か月前までは真昼は片口にとってありふれた幼馴染だった。片口の隣に真昼がいるのが当然だった。片口自身もそれが自然だと感じていて、それ以外の日常を想像することもなかった。
片口にとって真昼は手のかかる幼馴染だったのだろう。いつも真昼からキラキラとした期待を向けられていたから。けれどそれに抵抗を感じることはなかった。その光景が自然なものであって、真昼の隣にいることが自分であることの証明でもあった。
その関係が変わることはない。そう信じていたことがすでに未成長の証拠だったのかもしれない。昨日と同じ明日が待っているという保証はどこにもないのを知っているのに、自分だけはそうはならないだろうといううぬぼれがあった。
それは前触れもなく訪れて瞬きする間もなく片口が取り巻く世界を変えてしまう。
真昼の死というのはそういうものだった。その変化を受け入れられなかったのは片口だけではなく、真昼を知る人間すべてがそうだった。
ちょっとしたほころびからすべてが崩れ落ちるように変わってしまい、それをどのように戻していいのかもわからない。そういう機会さえ来ることがない。真昼が死んでから数日間はその無力さと絶望感がじわじわと片口を苦しめていた。
その状況もさらに大きく一変したのは、真昼がゴーストとして戻ってきてからだろう。彼女は戻ってきた。それは奇跡と呼べるものなのかもしれない。しかし片口はそうとは認めたくない。
真昼は確かに戻ってきた。けれど戻ってきた彼女を目にしたときにふと彼の頭によぎった疑問がある。
戻ってきた真昼に対して、自分はどのように振舞えばいいのだろうか?
真昼をこのような姿にしたのは自分であるのは間違いないのに。
幸か不幸か真昼は生前の最期の記憶を失っていた。だから片口にも同じように振舞ってくれている。
その彼女に対して以前と同じ自分を見せることが正しいのだろうか?
何回も自問自答しても答えは変わらない。世間という価値観に照らしてもそれは間違いない事実なのだ。
早瀬が言わんとしていることも分かっている。死を通り過ぎてゴーストとして動き始めた存在も永遠のものではない。沸き上がった煙が徐々に広がり、いずれその香りさえ消え去るようにいずれなくなる時がくる。
その間に言えなかったこと、伝えられなかったことを残すべきではないのかもしれない。
片口はそういう思いを首を振って振り払った。真昼に伝えることはないはずだ。だがこのまま彼女から避け続けることもできないというのも事実なのだろう。
それならどうすればいいのか。片口はすでに決めていた。
「真昼」
放課後に真昼の教室を入り口付近からのぞくと、多数の生徒が居る中であっても、真昼を探すのは容易だった。聞こえないかと思ったがその不安は、真昼の笑顔で消され目が合ったと思ったら彼女は片口のところへ歩いてきた。
「どうしたの?」
「時間ある? ちょっと話がしたい。ついてきて」
「うん」
真昼はまるで尻尾を振るような様子で喜びを放つ。嘘偽りのない純粋な感情であるのは片口だからこそ分かっていた。
放課後の校舎で二人きりで話ができる場所はそうそう思いつかない。真昼の元に来るまでにあれこれと悩んでいた片口だが、結局は無難な場所を選ぶことにした。
食堂の傍らにある自動販売機が並んである場所は、予想通り人の気配がない。
自動販売機に小銭を入れて缶コーヒーを取り出す。真昼は近くのベンチに座って図空を見上げていた。
「真昼は何か飲む?」
「おごってくれるの?」
「いや」
「ならいいよ」
片口は真昼の視線の先の壁に寄りかかり、缶コーヒーに口をつける。苦みがじわじわと口の中に広がり、どう話を始めるか迷っている自分が浮き彫りになる。
「なんだか久しぶりのような気がする」
何も感じないありのままの呟きが二人の間に浮かんだ。真昼を見ると彼女は彼女の目で片口を見つめていた。
「何が?」
他愛ない相槌で返すと真昼は軽く笑う。透き通るような穏やかな声音で真昼は話し始めた。
「片口が私のところに来てくれたことが」
「そうだね」
「ずっと話をする暇さえなかった。私が死んで、それでゴーストになってから片口と一緒にいる時間もなかった。片口に会おうとしても、なかなか片口に会うことはできなかったよね」
「それは仕方がないだろう? ゴーストになったらいろいろとあるだろう?」
「うん。そうだと思う。ゴーストになっていろいろと変わったことがある。私自身の感覚としては何も変わっていないと思っているけれど、やっぱり変わったことがある」
真昼は自分の手のひらを見て、かみしめるように言葉を漏らした。
「私の家族も毎日連絡が来るの。そうするのは分かるのだけど、今まで以上に過保護になったの」
「それなのによくここの進学を認めてもらえたな」
「だって合格したから。それに……」
「それに?」
「やっぱりなんでもない」
真昼はごまかすように笑う。片口はそれをただ見ていた。座っている真昼と立っている片口。その二人が作る距離はこれ以上近くなることはない。
「けれど真昼は分かっているだろう? 僕はもう真昼と昔のようにはなれない。
真昼が僕を追ってここに来たのだとしても。ずっとそばにいられることはできない」
直接言うつもりはなかった。距離を測っておけばそのうち真昼から気づいてくれると片口は考えていた。だがそのやり方は悠長な選択なのだろう。振り下ろすように非常な決断を突き付けることが最適だったのだ。
想像していた通りだが、真昼はぽかんとした表情をこちらに見せてくる。彼は自身との温度差に触れて徐々に胸の動悸が大きくなっていくのを感じていた。
自分でも不思議なくらいの鼓動だった。
対照的に真昼は悠然とした表情に変わっていく。その温度差をありありと味わっている間、真昼が先に口を開いた。
「片口はそう思っていたの?」
「うん」
「それは私がゴーストになったから?」
言葉にできない。やがて沈黙自体がその疑問の回答になってしまうと、真昼は自嘲気味に頬を緩ませるとぽつりと漏らす。
「そうなんだね」
何かが変わりつつあった。言葉にできない動きを前に片口が抱いていた動機は戸惑いへと変化していく。自分が結論付けていたこと、真昼がゴーストになってから自分なりに考えていたことを告げて確実に何かが変わりつつあった。
「真昼もうすうす感づいていたのじゃないか? 僕の態度の変化に」
「そう思っていたけれど、片口から聞いてみたかったから。だから今話してくれてよかった」
「そうか」
思わず、真昼から目を離してしまう。自分が今後を左右させる重大な話を始めている。その自覚をいまさら抱き、自分の覚悟を再度疑問視してしまいそうになる。
「片口がそうなら、そうするべきかもしれない」
「え?」
「私もね、ゴーストになれたのはとても幸運だったかもしれない。本当なら離れ離れになる人ともう一度出会うことができたから。
それだけで自分は幸運だったと思っているから、それ以上のことは望むことはできにないよ」
「別にずっと会わないって言っているわけじゃないから……でもごめん」
片口は自分でも何を言っているのかわからなかった。想定していた通りに話がまとまっている。けれど罪悪感が徐々に自分の身を焦がしている。
これでいいはずだ。自分に言い聞かせる声が少しずつ響いて重なっていく。
「うん。でも一つ知りたいことがあるの」
「何?」
真昼の声に顔を上げると変わらないままの真昼が片口を待っていた。そして彼女はその姿のまま片口に問いかける。その瞬間に片口は何を聞かれるのかを察してしまった。
目の前にいるのが真昼だから、ずっと小さい時から知っている真昼だから彼女が何を聞きたいのかわかる。それなのに真昼は口から出かけた言葉をぐっと飲みこんだ。
「やっぱりいいや。ごめんね。忘れて……」
遠ざかっていく足音。片口は一人取り残される。自分一人の空間で、真昼の声と足音だけが繰り返されていた。
徳が片口を見ているのを、片口自身も理解している。その視線を避けることもせずに、かといって反応することもなかった。
寮の自室でうつぶせになっている状態から、変えることができなかった。
徳自身もどういう言葉をかけていいのか判断に困っているが背中から伝わってくる。だがずっと野ざらしにしていることもできないでいるようだ。
「片口。ちょっとやそっとのことなら、お前自身で折り合いをつけていつものようにふるまっているかもしれないが、それが今はどうなっているんだ? ちっとやそっとのことではないことが起きたといっているようなものだぞ」
「……」
「そういう態度をしているのは話しかけてほしいとかかまってほしいと言っているのと同じだろう? 片口ならそれは分かっているだろう?」
「……」
「それでもやめないということは根が深そうだな。真昼さんのことで何かあったのか?」
「徳先輩ならお見通しですよね」
首だけを回して片口は徳と視線を合わせる。片口がこういう態度でいると、徳ならその結論にたどり着くのは容易に想像できた。
そうなることを期待していたわけではない。
しかし今の片口には徳を前に取り繕うような気力と余裕を持っていなかった。
「先輩は僕のことを物分かりのいいって評価していましたが、僕の自己評価は少し違います。中途半端なんですよ。自分に課したことに対して揺らいでいる。
時間が経ってわかりました。僕は何一つ守ることができない」
「何があったんだよ」
徳は近くにある椅子に座る。その目は深い彩りを放ち、小波たつ片口の心象を落ち着かせていく。
その彼を前に自分への疑問が積もっていく。片口はぐるりと仰向けになって上体をおこす。
「なんでもないですよ。ただ自分の愚かさを目の当たりにしただけです。想像以上に自分は脆かったということだけです」
「よく何もわからないぞ。何が言いたいんだ?」
「そうですね。何が言いたいのか、何がやりたかったのか自分でも分かりません」
片口のため息に合わせるように、徳が笑い声を漏らす。彼は関係ないはずなのに片口に寄り添って思慮を張り巡らせてくれている。片口がそれに気づいた絶妙なタイミングで徳は深くうなずいた。
「よくわからないし、何を課したのかというのを知るつもりはないが、その決めたことというのは守り続けなければいけないことなのか?」
「……」
「取りやめてもいいし後から変えてもいいだろう。持論だがこうしなければいけない、こうするべきだと自分で思っているときこそ、一歩後ろに下がるべきだ。自分がどこにいるのか、周りにだれが居るのかってね」
「先輩は……そのつもりがなくても自分にとって大切なものを壊してしまったことはありますか?」
そう言い切った後に一呼吸おいて、片口は自分の言葉に瞠目する。徳の語りにつられて無意識のうちにこぼれていたものだ。
静寂。部屋の明かりが削られていくように夜が広がっていく。
徳も片口と同様の表情をしていたが、それもすぐによく見る様子に戻る。
「そうだな。そういうことはしたことないな……」
徳のこの言葉をきっかけかは分からない。これで終わると思っていた片口の予感は全く予想しない方向から砕かれた。
「ん?」
徳が部屋の窓に顔を向ける。窓に何かがぶつかるような異音は片口も耳にしていた。徳が窓に近寄ると、苦虫を嚙み潰したような顔をする。その様子に片口もつられて窓に近寄った。
窓の下には早瀬が立っていた。
「どうしたのですか?」
早瀬はその質問には無視して生意気じみた立ち方できつい視線を作っている。
「片口もいたのね。ならちょうどいいわ」
「ちょうどいいってどういうことだ?」
「予定では徳から片口がいる部屋を聞こうと思っていたの。でもあなたたち同室だったのね。ならそれを省けてちょうどいいということ」
「早瀬。この学校の校則は比較的緩いが、それでもいくつか禁じられていることもある。生徒はそれぞれの寮に近づいてはいけないというのがその最たる例だ。説明しなくても分かっているだろう?」
徳は大人びた余裕を持った態度で、諭すような言い方をする。その態度を選ぶことで優位に立ちたいのだろうが、早瀬はそれを完全に無視していた。
「誰にも気づかれずに行き来できる道がいくつもあるのに、そんな校則を振りかざすことに何の意味があるの?」
「そんな秘密の道があるのですか?」
ほぼ衝動的に片口が徳に尋ねる。
「この学校にもこの寮にも歴史があるということだ。片口は必要があるのか?」
「聞かないでください。さっきのは軽率でした」
「話を進めてもいいかしら?」
「どうぞ。僕に何の用事ですか? 手短に頼みます」
「真昼ちゃんが帰ってこないの」
希望どおり手短に告げられたのだが、片口が得られた感情は満足とは程遠い感情だった。同時に早瀬がここに現れたことも得心がいった。
徳は片口の顔を一瞥すると、そのまま早瀬に顔を向けてひっそりと話し始める。
「帰ってこないって、最後に見たのはいつなんだ?」
「夕食の後に寮の部屋に戻って、お風呂に行くから私だけ部屋を出たの、戻ってきたときには部屋には居なくて」
「入浴で入れ違いになったということはないのか?」
「いいえ。ずっと待っていたけれど戻ってこないし、そもそも道が一つだからそこは気づくはずよ」
「そうなるとどこか別の場所ということか……どうしたものかな?」
何ともならないという胸中が微かに帯びたつぶやきと共に、徳は片口を横目で伺う。
「僕にどうしろというのですか?」
「あなた他人事ねぇ。こんなことは初めてなのよ」
「なら事が大きくなる前に教師に報告して探してもらうほうがいいでしょう? それか案外消灯ギリギリには戻ってくるつもりなのじゃないですか?」
「そうかもしれないけれど、あなたは本当にそう思っているの? 戻ってくるから大丈夫だって思っているわけ?」
「……」
早瀬の信じられないような目つきを前に、片口は揺らいでいた。早瀬の杞憂のままで知れっとした顔で戻ってくることも完全に否定できない。
真昼の真意は片口にも理解できていない。この理解できないまま終わってしまうのをよしとはできなかった。
肩に手が当たる。徳が片口に優しい視線を向けていた。
「俺が思うに真昼さんはお前に見つけに来てもらいたいんだろう? 早瀬じゃなくて片口自身に。探してあげたらいい。その後に決めればいいだろう。そしてこれはお前にもいい機会に違いない」
「……」
徳の前向きな思考は、片口は真似することはできないがこの時は役に立っていた。ようやく片口が自覚したことがある。多分まだ話し足りないのだ。そして同時にやっと話していないことを話す決意ができた。
片口は部屋の入り口に置いてある傘を手に取る。
「徳先輩。それ違っていたら三日は話のネタにしますから。消灯まであと何時でしたっけ?」
「あと一時間かそこら。外に行くならこの靴を使え」
徳は机の棚から懐中電灯とスニーカーを取り出すと、片口へ投げて渡す。片口はそれを受け取ると、窓から飛び出して早瀬の横に着地した。
「早瀬先輩。後はどうにかしますけれど、別に感謝はしなくてもいいですよ」
片口は返答を聞かずに走り出した。頭上の夜にはただ満月がくっきりとした輪郭を保ち片口を見つめていた。
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