雨郡華―⑥

 今ならまだ、間に合うはずだ。

 あたしは走った。普通こんなところを走ってはいけない。だから、できる限りで走った。


 演奏終了後、本来写真撮影を行うのだが、すべて撮り終わるころにはもう帰ってしまっているかもしれない。だから、お手洗いに行きたい、と言って楽器と楽譜を同級生に預けるとホールから飛び出した。多分後で怒られる。


 ホワイエから外に出ると、屋根ギリギリのところに女子高生の姿があった。


「遥先輩! き、来てくれたんですね! ありがとうございます!」


 普段全く走らないので、この程度でもあたしは息が切れた。はぁはぁしながら叫ぶ。周りの視線なんて気にしない。


「あ、あの、陸上、辞めるって、聞いたんですけど」


 ずっと真偽が気になっていたこと。あの遥先輩が陸上を辞めるわけなんてないけど、火のない所に煙は立たない。


「誰がそんなこと言ってたんだよ」

「え、えっと……」

「辞めるわけねぇだろ」

「えっ」


 安堵。やっぱり、遥先輩が辞めるわけないんだ。あたしは胸をなでおろす。


 遥先輩はゆっくりと振り返る。その顔は、とても自然な笑顔を浮かべていた。

いつもの遥先輩だ。かっこよくて、可愛くて、あたしの大好きな遥先輩。


「だから、華も音楽、続けろよ」

「え、で、でも、あたし……」


 その安堵は、思いもよらない先輩の声で打ち破られた。遥先輩には筒抜けだった、ということなのか?

 でも、自分には才能もないし、吹奏楽を続けるには時間もお金もかかる。だから……


「華ぁー! 探したよぉ! 写真撮ろうよー」


 同級生に見つかってしまった。声で分かったが、その中には唯もいる。あまりに帰りが遅いので探しに来てしまったのだ。


「ほら、行ってこい」


 なかなか足が動かない。


「華の音楽、私は好きだよ」


 その瞬間、ハッとした。あたしの音楽を好きだと言ってくれる人がいる。たしかに遥先輩は全然音楽について詳しくないし良し悪しだってなんとなくしか分からないんだろう。でも、でも、こんなこと言われるのは初めてだった。


 そうだよ。あたしも、音楽が好きなんだ。だから、今日も楽しかった。なぜかあたしがいると雨が降るみたいだけど、別にいいじゃないか。唯に下手だとあざけられようが、先輩に笑われようが、そんなこと気にしてたまるか。あたしはあたしの音楽をやるんだ。


「あ、ありがとうございます!」


 あたしは振り返って走った。怒られようと構わない。あたしの居場所はそこなんだ。

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