雨霧保―⑤

 買い物の帰り、俺はいつものバス停に人影を見た。俯いて、いかにも何か考え込んでいるような男の影。


「あんた、大丈夫か、救急車でも呼ぼうか」

「い、いや、大丈夫だ。少し考え事をしていただけだよ」


 救急車を呼ぶ気なんて毛頭なかった。声をかけるきっかけになればなんでも。そして上げた男の表情は曇っていた。絶望とまではいかないが、人は何か重大な選択を迫られているときにこういう顔をするんだ。


「俺でよければ」


 俺は傘を閉じて男の隣に座った。二本の傘をレジ袋に立てかける。片方は今までさしていたもの。もう片方はあの時女子中学生に貸してもらったものだ。海堂中の制服だったから、いつか会えるんじゃないかと、外出の際は常に持ち歩いている。


 男の娘が、近くの病院で入院しているらしい。それも、足を切断し義足での生活を余儀なくされている。陸上をやっていた彼女にとってはかなりの悲劇と言えるだろう。


「スポーツ用義足の購入を検討しているところなんだよ」

「そんなの決まってるんじゃないか。あんた、親だろ?」


 何を無責任な、と言われるかと思ったが、男は素直に頷いた。多分、もう心は決まっていたんだろう。そもそも、親になったことのない俺に、この男の気持ちなんて分かるわけがないんだ。


「そういう君は何をしているんだ。学生か?」


 今度は男が尋ねてきた。


「俺は漫画家でさ、全然売れてないんだ。そういえば、聞いてくれよ」


 普段自分のことをあまり話さないタイプなのだが、この人ならなんとなく話してもいいような気がした。いや、話すべきだと思った。


「でも、君、そんな観察眼、なかなか持っているものじゃないと思うよ」

「へ?」


 二つのエピソードを語った後に男の口から出た言葉は、罵倒でも同情でもなく、肯定と承認だった。

 あまりの驚きに俺は目を丸くする。


「折角そんなに周囲を観察するのが得意なんだから、そういう漫画を描いたらいいんじゃないか?」

「そ、そういう漫画?」

「ほら、日常系? 私もよくわからないけど」


 たしかにそういう系統の漫画があることくらい知ってるし、何度か読んだことはある。でも、そんなもの今まで描いたことないし、何より俺はアクション系の漫画が……


「いやでも……」

「その袋に入っているの、ペットの餌とかだろう。例えば、そのペットとの日常を漫画にするとか」


 ユキ。俺の唯一の家族。雪の日にうちにやって来たから『ユキ』。あいつを題材に漫画を描く? そんなこと考えたこともなかった。たしかにあいつとの数年間は、色とりどりで山あり谷ありだった。


「あぁー」


 少しだけ、やってみようか。どうせこのままアクション漫画を描いていても売れないさ。最後の悪あがきくらい、最愛の家族と一緒でも祟られたりはしないだろう。


 バスが目の前に停まった。俺たちは立ち上がる。


「漫画、頑張れよ」

「娘さんにも、頑張れって伝えておいてくれよ」


 俺たちは握手をした。多分、話さなければならないと感じた所以ゆえんはこれだったんだろう。相変わらず雨は降り続いているが、もう俺を嘲笑あざわらうことはなかった。


 生まれて二十数年。雨を鬱陶うっとうしく感じなかったのは、これが初めてな気さえした。まぁどうせ、そんなわけないんだろうけど。

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