雨池博―⑤
毎年恒例の夏の吹奏楽コンクール。今年は生憎の雨だった。私はいつもの定位置に腰を下ろす。
今年のレベルははっきり言って高くない。私が中学生だった頃の方が上手だったんじゃないだろうか。でも、やっぱり生で聴く音楽はいい。レコードを通して聴くプロのオケよりも、感情がそのまま伝わってくる。
「出演順六番。海堂市立海堂中学校……」
私の母校。散歩の時に聴いていた学校だ。
「これより十五分間の休憩に入ります……」
演奏終了後、休憩時間になった。ふと隣を見ると、体格のいい女子高生が座っている。もしかして吹奏楽関係者ではない人が聴きに来ているのか?
もしそうなら、こんなに嬉しいことはない。
「やはり、生で聴くのはいいものですな」
前を向いて、女子高生に語り掛けるように、小さく呟いた。
「そ、そうですね」
案の定、作り笑いで返される。それでも私は前を向いたまま続けた。
「私はね、毎年聴きに来ているんですよ。と言っても県大会は会場が遠いので行けませんが。
「い、いえ、私は、陸上を……」
陸上か。やはり吹奏楽をやっている人ではなかった。
「そうですか」
本来なら、ここで吹奏楽について少し語っていたところだが、やめておいた。
どうせ話なんて通じないから、というわけではない。おそらくこの女子高生は何らかの原因で陸上を辞めようとしているんだろう。でも、まだ決心できていない。つまり、揺らいでいるんだ。それが、声色と雰囲気で容易に感じ取れた。伊達に長生きして様々な人と交流してきたわけではない。
女子高生は立ち上がる。
「どうして陸上を続けていたんですか?」
私はゆっくりと口を開いた。
女子高生は聞こえているのか聞こえていないのか、何の反応もすることなくホールから出て行った。
私は若い頃、音楽家を志していた。しかし自分に才能がないことを悟ると呆気なくその世界から離れてしまった。それだけではない。仲間も捨てた。少しでも早く音楽のことを忘れたかった。
今ではそのことを後悔している。どれだけ頑張っても音楽を忘れることはできなかった。だから今もこうしてここにいる。才能があったのか、なかったのか、音楽を続けていて成功していたのか、一生売れない音楽家だったのか、それは分からない。でも、好きだった。大好きだった音楽を、仲間もろとも捨てる必要はなかった。
今はあの女子高生も、不安定な感情で陸上を手放そうとしているに違いない。でもそれで後悔はしてほしくない。私と同じようには、なってほしくなかった。
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