雨宮遥―⑤

 運よく当日券が買えた。朝から並んだだけのことはあった。

 私は客席の前の方、入って右手側に座った。たしか華はいつもこちら側に座っていたような気がする。


 華の出番は六番目。でも一番目から聞いた。完全に素人な私でも、多少の良し悪しは分かった。でも、これで順位がつくのか。陸上は誰が見ても順位が変わることはない。やっぱり世界が違うな。

 いや、今は陸上のことは忘れよう。


「出演順六番。海堂市立海堂中学校……」


 ついに華の出番。本当に丁度目の前に華の姿が見えた。おそらく華は私に気が付いていない。

 いや、気が付かないほうがいいんじゃないか。私はもう陸上をやっていない。そんな状態で華に会ってどうする。でももう席を動くことはできない。

 演奏が始まった。静かな部分、激しい部分、知り合い補正もあるだろうが、明らかに今までの五団体よりも上手に聞こえた。


 演奏が終わる。

 大きな拍手と共に、演奏者が立ち上がる。

 その瞬間、目が合った。合ってしまった。


「これより十五分間の休憩に入ります……」


 アナウンスが入り、休憩時間に入る。今のうちに姿を消すべきか。


「やはり、生で聴くのはいいものですな」


 隣の隣に座っていた老人が呟く。独り言かとスルーしようとしたが、ゆっくりとこちらを向いた。


「そ、そうですね」


 私は作り笑いで答える。老人は前を向いて続けた。


「私はね、毎年聴きに来ているんですよ。と言っても県大会は会場が遠いので行けませんが。貴方あなたも、吹奏楽をやっているのですか?」

「い、いえ、私は、陸上を……」


 私は慌てて口をつぐむ。そして、勝手に陸上をやっていると言おうとした口を恨んだ。


「そうですか」


 この老人も何かを察したらしく、それだけ言って黙った。

 私はホールから出るために立ち上がる。


「どうして……」


 私が今日の今日まで避け続けてきた質問。それが今、襲い掛かってこようとしている。何のためにここに来たんだ。逃げようと足を一歩前に出した瞬間……


「陸上を続けていたんですか?」


 想定外。銃口を向けられていたはずなのに、そこから出てきたのは銃弾ではなくマシュマロだった。それくらいの想定外。

 私は、答えずにそのままホールから飛び出した。

 老人が追ってくることはもちろんない。


――どうして陸上を続けていたんですか?

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