雨霧保―④

「また雨かよ……」


 俺は駅舎から出てすぐのところで立ち尽くした。ここは屋根があるので濡れることはない。

 出版社へ漫画を持ち込んだ帰り。行くときは降っていなかったはずなのに。

 駅から家までは歩いて三十分程度。バスを使ってもいいが、それでも最寄りのバス停から家まで歩いて五分はある。この豪雨では、ずぶ濡れ不可避だろう。


「あの、傘、持ってないんですか?」


 隣から可愛らしい声。また女かよ、と思って隣を見ると、一人の女子中学生が鮮やかな青色の傘をさして立っていた。ここは屋根があるのに。片方の手にはもう一つの閉じられた傘。


「お、おう」

「これ、使いますか?」


 少女が傘を差しだした。その表情からは、とても陰キャを嘲笑あざわらっているとは思えなかった。ただの純粋な親切心。もしかしたら俺がそう思いたかっただけかもしれないけど。


「え、いいの? 傘くらい交番に行けば貸してくれそうだけど……」

「いいんです。どうせ二つ持っているから」

「あ、ありがとう」


 どうしてそこまでして傘を渡したかったのか、理解はできなかったがありがたく受け取ることにした。

 少女が背負っている物。何かのケースか? この形状。見覚えがある。


「もしかして、楽器、やってるの?」


 少女は驚いたように目を丸くすると、小刻みに頷いた。彼女からすれば、どうしてバレたのか分からないだろう。


「音楽か。いいものだな」


 また頷いた。


「でも、芸術の世界は楽しんでいるだけでは生きていけないぞ」


 ついつい偉そうな口を叩いてしまった。俺だって全然食っていけていないのに。でも、小さい頃は自分の絵の才能に自惚うぬぼれて漫画家を志した俺だ。この少女にはなんとなく同じ道を辿ってほしくはなかった。


「か、傘、返さなくていいです」


 少女は軽く会釈すると、逃げるように通り過ぎて行った。やっぱり悪いことをしてしまったか。少女の背中を目で追う。


 貸してくれたピンク色の傘をさすと、俺は少女とは別の方向へ歩き出した。


 あまりの豪雨なために、子供用のこんな傘では到底無傷で帰ることはできないだろうが、心は、とても温かくなった。こんな感情になったのは、本当に久しぶりかもしれない。

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