雨笠達郎―③

 ようやく娘に会いに行ける。それだけで今日は気分が穏やかだった。外が晴れていてくれたらもっとよかったんだが。

 最近ずっと仕事が忙しかったというのもあり、娘に会うのは二週間ぶりくらいだ。基本的には妻が様子を見に行ってくれているので、状況は聞いていた。治療も進み、今はリハビリ専門病院に移されている。義足での生活に慣れるためだ。


「あ、こんにちは」


 家から出ると、庭の入り口に見覚えのある子どもが立っていた。桃色の傘をさして。


「おや、華ちゃんじゃないか。こんにちは」


 雨郡華。娘の親友。

 私はあまり知らないが、よく一緒に遊んでくれているようだ。娘の大会にも何度も来てくれている。彼女自身は吹奏楽部だというのに。


「心寧ちゃんは、大丈夫なんですか?」


 目の前の少女から、純粋な疑問が飛び出した。これは、はたから見れば何の悪意もない、ただただ娘の体調を気にかけてくれている言葉なのだが、私にとってはきちんと研がれたナイフのようだった。血にまみれていないところからもその純粋さが伺える。そして、彼女自身も決して悪意なんてないんだろう。いや、あるはずがない。


「ま、まぁ」


 私はこう答えるしかなかった。正直なことを言ってここで泣かれても、謝られても困るし、嘘をつくのも性に合わない。ナイフを奪い取るでもなく、逆につきつけるでもなく、静かに受け止める。本人はナイフを握っていることすら自覚がないのだから、こうするのが最善であろう。

 華ちゃんは相変わらず純粋な眼差しで私を見つめ続ける。


「あ、あの、遥先輩が陸上を辞めるらしいんです! だから……だからってわけじゃないけど、心寧ちゃんには辞めてほしくないんです! また、走れますよね?」


 次に飛び出したのは思いもよらぬ言葉だった。その表情から必死さがうかがえる。

 遥先輩、というのは娘の憧れでもある先輩のことだ。私自身その姿を見たことはないのだが、走るのが速くて、かっこよくて、誰もが憧れる先輩なんだという。娘が遥先輩の話をするときは、決まって活気に満ち溢れていた。


 それどころではない。

 『また、走れますよね?』

 私の耳の中で何度も反響した。

 走れるわけがない。だって、だって。

 ここまで考えて、そしてその先に到達する前に止めた。


「ごめん、今から出かけるんだ」


 私の口からはそれしか出なかった。やっぱり正直言うことなんて。

 私は傘をさして華ちゃんの横を通り過ぎる。雨だから車では行かない。


「心寧ちゃんに! これだけ! これだけ渡してください!」


 後ろから再び声が飛んできた。私が振り返ると、華ちゃんが手紙を差し出している。きっと、娘のために書いて来てくれたんだろう。


「今日は態々わざわざ来てくれてありがとうね」


 そういえば感謝を述べていなかったのことを思い出し、手紙を受け取ると同時に礼を言った。そして、歩き出す。


『また、走れますよね?』


 刺さったナイフを身体から引き抜くと、歩きながらその場に落とした。雨の音のせいで、その音は華ちゃんには聞こえなかっただろう。

 いつから私はこんなにも腐った大人になってしまったのだろう。

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