雨池博―②

 今日も小雨だった。夏の訪れを感じさせるような雨。道に生えた木の葉たちが、雨粒を受けて乾いた音を立てる。


 キャンッ キャンキャンッ


 後ろから犬の鳴き声。振り返ると、そこには小さな白い犬がいた。同じく白いレインコートを着ている。そういえば、昔飼っていた犬も真っ白だったな。同時に妻のことも思い出し、なんだか心が穏やかになる。


「あっ、すみません! だ、大丈夫ですか?」


 つながったリードの先を見ると、一人の青年が立っていた。気が付いた彼が私のもとに駆け寄ってくる。


「大丈夫大丈夫。お気になさらず」


 私は、昔のことを思い出させてくれた感謝も込めて笑みを返した。この若者とは、散歩で何度かすれ違ったことがある。年齢は大学生か、それくらいに見えるが、この辺りに大学はない。


「ところで、何をされているんですか?」

「え、えっと漫画の方を……」


 漫画と言えば、私の孫の一人が好きだったな。私の家に来た時も、ただひたすらに漫画を読んでいた。私にはあまりその魅力が分からないのだが。


「そうですか。私はあまりそのたぐいのものに明るくないんですが、調子のほどはいかがですか?」

「え、えっと、まだそんなに……」

「そうですか。聞いた話によると、なかなか狭き門のようですから、時には立ち止まって進路について考えてみてくださいね」


 孫がたしかそんなことを言っていた気がする。まだ十にもならない孫の言っていることだが、最近の若者というのは情報を得るのが早い。何より、私が上手く使えないと嘆いていたスマホ、とやらをまるで魔法を使ったかのように華麗に使いこなして見せたのだから。


「そ、そういうあんたは何やってたんだよ」


 口調が少し強くなった。何か機嫌を損ねるようなことを言ってしまっただろうか。何も、漫画家を諦めろと言ったわけではなかったのだが……。


「私ですか? 私はしがない中学教員でした」


 たしかに教員だった。でも、かつては目の前の彼のように別の夢を追っていた時期もある。


「こ、公務員様に俺の苦労なんて分かるもんか」


 そう言うと犬を抱きかかえて、逃げるように立ち去ってしまった。釈明の余地なんてなかった。

 これが、老害、というものなのだろうか……。

 ただ、彼には夢を追い続けてほしいと、そう思った。

 私は、途中で諦めてしまったから。

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