第六十話 救出(ニ)

 クローヴィスは、ふと疑問が浮かんだ。

 アウグスタが落馬するまでは、隊のすぐ後ろに狼たちはいたはずだ。しかし、反転して引き返すと狼との距離はかなり離れている。不審に思い主人モーリアンと念話を試みるが、雑音のような乱れが、頭の中を巡り話ができなかった。何かに遮断されているように感じる。


 アウグスタが落馬した時に、狼たちから乱れた波動を感じた。労せず獲物を手に入れられる嬉々とした感情。獲物を狩ろうとする本能。それを無視し別の標的へ向かわせようとする強制力。その狭間でどうしたら良いか分からない混乱の感覚。クローヴィスは、狼たちからそれを感じ取っていた。


 その時に動きが鈍ったのか?


 この距離を利用して、向かってくる狼を斬り付ける為、剣に力を纏わせた。クローヴィスは、牙を剥き出しに襲いかかって来た狼を赤紫に輝く剣で薙ぎ払う。斬るというよりは、避けるため叩きつけるように振ったのだが、ブテュールムバターを切るように、滑らかに刃が入っていった。

 狼は、短い悲鳴をあげてすれ違った。クローヴィスは、振り向かずに前を向いたままだったので、結果がどうなったか分からない。そんな余裕があるわけない。狼の群れの中へ進んで行こうとしていたからだ。

 向かって来た狼を斬り捨て先々を観ると、次の相手が見当たらず狼たちは散会していた。クローヴィスを避けるように、後方へ走って行く。


 どういう事だ!


 彼は振り返ると、小隊の騎馬が追いかけ来ていた。それに狼たちは向かって行ったのだ。既に乱戦状態になり、襲い掛かられている者や対峙し槍で斬り結んでいる者もいた。クローヴィスは、速度を緩め援護に向かおうと向きを変えたが、それを止められた。


「クロー! 先へ進め! 隊長を助けるんだ!」


 さっき罵倒してきた戦士が叫ぶ。彼はそれを最期に、襲って来た狼と絡み合い、落馬して行った。クローヴィスは、一瞬目を瞑ると、歯を食いしばり先を見据えた。


「ハッ!」


 両足で馬の腹に拍車をかけると、今度は振り返る事なく進んで行く。


 ◆


「お前が私の死か」


 恐ろしく冷静な声が出た事に、アウグスタは自身でも驚いていた。

 巨大な片目の狼に睨め付けられると、身体が凍り付いたように動かなくなっていた。身体が小刻みに震え、地面に突き刺している剣がカタカタとなっている。何故だか分からないが、先程まで全身を襲っていた激しい痛みも引いていた。


『ほう、気丈なヒト族の雌だな。さぞかし我の力を向上させてくれるだろう』


 巨狼は、ルカスの血を滴らせた口元を大きく歪めた。


『さっきの雄と違って、お前の輝きは、さぞ旨かろう』


 巨狼の勇敢なる死者への侮辱に、アウグスタの頭は真っ赤に染まった。湧き出る怒り、そして屈辱。敵わぬまでも一矢報いたい。そんな想いに、剣を杖代わりに動かぬ身体を酷使して、血と脂汗を流しながらアウグスタは立ち上がった。


『ククク、ヒト族の分際で何をしようとしておる。しかもそのような身体では、我を傷つける事も叶わぬ。大人しく我の餌になれば、苦しむ事も無かろうに』


「私は、カメリア辺境戦士団アウグスタ中隊隊長アウグスタだ! 下郎の狼に屈しない! 敵わずとも一太刀浴びせてみせる!」


 辛うじて身体の均衡をとりながら、アウグスタは振り絞る様に名乗りをあげ、巨狼に対して剣を突きつけた。


『ファッハハハ、良きかな良きかな。ヒト族は誠面白い、我を如何に笑わせてくれるか。思い励めば、我に傷をつける事も叶おうぞ! この左眼を奪った戦士の様にな!』


 はっきり言って、アウグスタは限界だった。湧き上がる怒りによって、痛みを感じる事は無かったが、気が逸れると膝から崩れ落ちそうだった。左半身は動かず、頭はクラクラと目眩がしており、ただこの狼の前で無様な姿を晒したくないその想いだけで立っていると言えよう。


「お前を傷つけた戦士だと?」


 この強大な力を持った巨狼に、傷を付けた戦士がいたのだ。鬼気迫るこの状況でも興味が湧いてしまう。巨狼も話したがっているのだろう。自分の武勇伝を誇るためなのか、はたまた、彼女へ更なる恐怖を与えるためなのか。


『昔、ヒト族の街を襲った時にまみえた。其奴もお前以上の美しい輝きを放っておったな。しかも真王の祝福を授かっておった。口惜しい事に、其奴の力を奪い取る事はできなかったがの』


 巨狼は、その時の事を思い出すかの様に、潰れた左眼を前足で擦っていた。


「その方の名は……」

『ふむ、確か……カインと言ったか。ヒト族では名が通った戦士だったらしいが、そう……ヒトあるまじき強力な戦士だった。何しろ、狼王たる我に傷を付けたのだからな。さぞかし美味かっただろうよ。真王がご所望で無ければ……口惜しいかがな』


 巨狼は、そう言うと太く長い下で、溢れ出る涎と共に口の周りを舐めまわし、歯茎が見えるまで牙を剥き出しにした。


 英雄カイン……。

 戦士の誰もが夢見る存在。戦士になったからには、いつか果てる時が来る。皆その散り際に憧れる。

 百年前、自らを囮とし多くの人々をヘルクラネイムから脱出させた英雄。その最後は、伝わっていない。一緒に残った仲間の戦士団は、誰一人戻ってこなかったからだ。現在伝わっている物語は創作物が、自らを囮としヒト族を救ったのは事実だ。

 

 アウグスタは震えた。

 それは、恐怖からの震えではない。歓喜の震えだ。

 力無きヒト族が、この強大な力を持った怪物に一撃を与えたのだ。

 それは希望。

 いつしか打ち破る事が出来るだろう。

 

 だが、それは私ではない……。


 不意に涙が溢れ出した。

 自身の情けなさと悔しさに歯軋りをする。

 単なる落馬によって重傷を負い、この強大な敵を前にして何も出来ずに死ぬのだ。せめて戦って死にたかった。

 心が空虚になっていくのを感じ、悲しさに震えた。


『ウォオオオン、思い出したら凄まじく腹が減ってきたぞ。そろそろ戯言は終わりだ。そこに平伏し大人しく我の餌になれ!』


 アウグスタの感情の変化を巨狼は、恐怖と絶望として感じ取り、ますます欲望をたぎらせた。恐怖や絶望に染まったヒト族は最高の味付けだ。だからすぐには殺さない。十分に痛めつけてから喰うのだ。

 だが、このヒト族の雌の輝きは変わらない。たまにいるのだ、屈しない最高の輝きを持った者が。その者たちは巨狼に莫大な力を与え、妖精族にも対抗できるほどの力をもたらした。

 この者を食せば、どれほどの力を得られるか。そう考えると巨狼は溢れる涎が止まらなかった。



 アウグスタは既に限界だった。

 剣を構える右手は力が抜けていき、気を抜くと落としそうになる。何百何千回も振るい、今では手足のような剣なのに恐ろしく重い。頭からは滲んだ血が止まらず、頬を伝わり顎先から滴り落ちていく。目眩がさらに酷くなり、今にも倒れてしまいそうだった。嘲笑めいた巨狼の顔を見ると、巨狼が喜びそうな無様な姿を見せたくなく、意地で立っているようなものだ。


 遂に巨狼が動き出した。牙を剥き出しにし、アウグスタに齧り付こうと襲い掛かってきた時だ。突然攻撃をやめ、脇へ飛び跳ねる様に避けた。そこへ金色に輝く太い槍が、巨狼目掛けて飛んできたのだ。槍は巨狼に掠ると平原を突っ切って、こちらに向かって来る馬車目掛けて飛んで行く。


『ルクスのペデスめが、いいとこで邪魔をしおって!』


 掠った所の獣毛に焦げ目がつき、紫色の体毛に黒い線ができていた。それを見た巨狼は、途端アウグスタと対していた時と打って変わり、唸り声と共に体毛が逆立ち姿勢を下げた。隠れていた前足の爪を剥き出しにし、戦闘態勢をとった。









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