第五八話 隻眼の巨狼
まったくクローの奴め!
せっかく護衛の厚い荷馬車へ配置したのに! よりによって一番危険な
アウグスタにとっては、折角の好意を無下にされたと腹立たしく頭にきて、思わず怒鳴ってしまったのだ。一通り悪態をついて不満を発散させた。できれば声を大にして叫んでみたかったが、今は抑えよう。とりあえず、言いたい放題言ったおかげで胸がすいた。クローとしても隊の役に立とうと、アウグスタの元に来たのだろう。彼女の求めることとは逆だが……。
悪態をついたことで、心が落ち着き、現状を把握しようと辺りを見まわした。このような切り替えに早さが、アウグスタの長所と言えるだろう。この危険な辺境では、物臭で自分勝手であるゴロツキのような戦士たちを率いてはいられない。
どうやらカリウスの隊は、奇襲を受けたらしく、四散している。何騎かは、砦に向かったようだが、隊としては機能していない。
二陣のインゲルスの隊も先陣の混乱に巻き込まれ、道から外れ平原へ追いやられた。大きめの一頭に取り憑かれ、砦とは別方向へ逃げているようだ。助けに向かいたいところだが、そうも言っていられない。こちらにも足の速い狼が追いつき、進行方向を邪魔しに体当たりをしてくる。それに苛つきつつも剣を振っていなしていた。
「隊長! 危ない!」
隣を走っていたルカスが声を上げた。
邪魔をする狼に気を取られていた隙に、前方の隊を襲っていた狼が、こちらに向かってきたのだ。気づいた時には既に遅く、口を大きく開けた狼が眼前に迫っていた。そこへ庇うように横合いからルカスが割って入ってくる。彼は狼の腹に激突し、アウグスタを巻き込んで落馬した。二人は地面を数度転がり、その上を騎馬や狼が飛び越え通り過ぎていく。馬蹄に踏み潰されなかったのが幸いだった。
土と血の味がする。
目を開けると地面が間近に見えた。どうやらうつ伏せになっているらしい。右手には剣を握っているのが見える。一瞬アウグスタは、なぜ地べたで寝ているのか理解できなかったが、急激に記憶が戻ってきた。
そうだった。周辺を把握している時に、隙をつかれ狼に襲われた。そこをルカスに救われたのだ。彼はまだ若いが状況判断に優れている。もっと経験を積んでいけば、良い指揮官やとても優秀な参謀となるに違いない。いつも通り、戦場を見回す時は必ず支援してくれる。今回もそうだったのだろう。
彼は、どこにいる?
一緒に落馬したのだ。すぐ近くにいるだろうが、辺りは静寂さを保っている。
隊の連中はどうしただろうか?
無事に砦へ辿り着けたのだろうか?
「ウグッ」
起きあがろうと身体を動かすと、左肩に強烈な痛みが襲い、再び地面に突っ伏した。痛みのおかげで、ぼんやりしていた頭がはっきりすると同時に、静かだった周囲から喧騒が戻ってきた。今度は、慎重にゆっくりと身体を動かして、右腕に力を入れた。先程ではないが、激しい痛みが襲い地面に倒れ込んだ。
「隊長! 待ってください!」
アウグスタが、起きあがろうともがいていると、背後から駆け足の音ともに声がかかる。どうやらルカスは、無事だったようで安堵した。
「ウグっ……。は、はや…く……、わ…たしを置いて、に、逃げるんだ……」
「そんなことできませんよ。さぁ、ゆっくり起き上がって……」
「ばっ、馬鹿者が……」
ルカスの手を借りて起き上がろうとするが、左半身のあちらこちらから痛みが走る。何とか上半身を起こすことができた。左眼は何かが入って開けることができないが、右眼で周囲を確認することを忘れない。どうやら狼どもは、小隊を追って行ったようで近くには異なさそうだ。
「早く……馬を呼べ。私は……、こ、この…有様だ。馬には乗れん、君だけでも逃げろ……」
声を上げると脇腹にも痛みが走った。肋骨も折れているか、ヒビが入っているのだろう、息をするのも辛い。この状態では、騎乗するのはむずがしい。だからこそ、足手纏いになる自分を置いて、ルカスにはさっさと砦へ向かって欲しかった。あたら若い命を散らせたくない。
「そんなことはできません! 最後まで生きるのを諦めず、抗うのも我々戦士の任務です!」
アウグスタは自身を囮にして、ルカスを逃がそうとしていた。ルカスは、アウグスタの考えを読んで、それを受け入れない。確かにその通りなのだが、重傷を負っているアウグスタには、戦場を無事に離脱して助かる見込みはない。軽症のルカスだけであれば、馬に乗ることができれば助かる見込みもある。このままであれば、戻ってきた狼の餌食になるしかないのだから。しかし、ルカスは普段では考えられない強い口調でアウグスタを諌めた。
「それに、狼どもは小隊を追いかけて行ってしまいました。あれを見てください。荷馬車もこちらに向かって来ます。きっとフィデスの賜物でしょう」
確かに言われてみるとそうなのだ。身近に狼はいなかった。かなり遠くだが、荷馬車も砦とは逆方向に進み、こちらの方へ進路を変えようとしていた。
しかし、さっきから考えることが億劫だ。目眩がして、どこか遠くから眺めているようだ。平衡感覚が保てずに、右手を地面について身体を支えると、前屈みになった。すると、地面へ何かが垂れていく。
汗だろうか……。
暑いわけではない。どちらかと言うと寒いのだ。左側の顔に流れる感触がしたので、体勢を戻してから右手で拭った。ねっとりとした指先の感覚に驚いて指先を見ると、真っ赤に染まっていた。左眼が見えづらいのは、血が目に入っているようだった。
頭から落馬したのか……。
吐き気が催してくる。そして、眼前が暗くなってくるところを優しく支えられた。
「これは……、酷い……。ちょっと待っいてくださいね。手当てをしますから。荷物を取ってきます」
落馬した時の衝撃で、背嚢や腰袋が散乱したようだ。
支えていたルカスが、ゆっくりとアウグスタを離すと、荷物を集めに駆け出した。
かなりの出血もあり、頭を打った症状なのかもしれないが、目眩が酷い。剣を地面に突き刺して、それに
何故なんだ。どうして狼たちは襲ってこない。
疑問に思ったが、どうしても気が逸れて考えることができない。何とか集中しようと努めたが、ルカスに中断させられた。
「お待たせしました。医療用道具は、無事でした。これで……」
ルカスが荷物を片手に駆け寄って、アウグスタの済んでで止まると荷物を落とした。その顔から血の気が引き、歯を鳴らしている。その視線は、アウグスタのかなり頭上を見ていた。
彼女も気配を感じ振り向こうとするが、振り返ることができなかった。すぐ間近に、生暖かい息遣いを感じたからだ。
「な、何で……。い、今まで、居なかったのに……」
ルカスは、そう呟くと剣を引き抜くため、腰に手を動かした。アウグスタが止める間も無く、紫の疾風が彼を襲った。吹き飛ばされた瞬間、紫色の大きな塊が彼を覆い、何か硬いものを砕く音が聴こえた。瞬く間の出来事だった。
その紫の塊が動き、白や黒の濃淡が見える。それが、顔だと認識しづらいかったのは、あまりにも巨大だったからだ。
ゴキュッ……。
再び、砕ける音が聴こえた。
ソイツの口から赤い液体が流れ出る。そして、不味そうに赤く染まった塊を吐き出した。衝撃が強すぎてアウグスタには、それがルカスの一部だと理解することに遅れた。
アメジストを想わせる紫の瞳に射抜かれ、アウグスタの身体は凍りついたかのように動かない。ソイツは片目であり、閉じた左眼は剣か何かで付けられた傷痕がある。
今まで見たことの無い、荷馬車ほどもある巨大な狼だ。ソイツは、真っ赤に染まった口を開く。
『ふむ、青いな。もう少し熟成させてから刈り取るべきだったか。まぁ、主菜の前の前菜だと思えばよかろう』
赤く染まった口周りを拭いながら、舌舐めずりをしていた。
狼が喋った……。
ますます、アウグスタは混乱していく。
彼女の知っている限り、狼が話すなんて聞いたことも無かったからだ。
『お前は、とても美しい輝きを持っているな。さぞ、旨かろう。クククッ、もっと恐怖を感じろ。それを薬味に、熟成した味わいを楽しましてくれ』
血で染まった口元を歪め、鋭い犬歯を剥き出しにした。隻眼の巨狼が嘲笑ったのだと、アウグスタのぼんやりとした頭に浮かんだ。
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